2005-12-01から1ヶ月間の記事一覧

 リュミエール社が撮影した日本(2)

日本を撮影したリュミエール社の作品を見るとき、注意しなければならない点がある。それは、演出が施されているという点だ。リュミエール社の作品はドキュメンタリーであると一般的な認識は必ずしも正確ではない。日本に限らず、他の国で撮影されたフィルム…

 リュミエール社が撮影した日本(1)

稲畑勝次郎がシネマトグラフを輸入して帰国した際、リュミエール社の技師コンスタン・ジレルが一緒だった。日本にやってきたジレルは、日本の光景を撮影して、リュミエール社に送っていた。また、ジレルが帰国した後にはガブリエル・ヴェールという人物が日…

 ヴァイタスコープの輸入と興行

1897年(明治30年)2月21日、大阪で荒木和一が、エジソン社が発表していたヴァイタスコープを公開。続いて3月には東京で公開されている。 東京での公開は新居商会という会社が行った。料金は特別席1円、一等50銭だったという。この料金がシネマ…

 シネマトグラフの輸入と興行(2)

大阪での興行に続いて、東京でも上映が行われている。東京での上映は、稲畑に興行を一任された横田永之助という人物が取り仕切って行われた。横田はこの後も映画界に残り、大立者として映画界に影響を及ぼしていく。そんな横田に対して、稲畑は新しい機械を…

 シネマトグラフの輸入と興行(1)

1897年(明治30年)2月15日、リュミエール兄弟によって作られたシネマトグラフが、大阪で公開された。 シネマトグラフを輸入したのは、稲畑勝太郎という人物。稲畑は、かつてフランスに留学した頃に知り合いになっていたオーギュスト・リュミエール…

 キネトスコープの輸入と興行

日本では独自に映画の撮影機・上映機は開発されなかった。そのため、日本における映画の始まりの記述は、機械の輸入から始まる。 1896年(明治29年)11月、キネトスコープとフィルムが輸入され、神戸で上映会が開催された。その後、大阪や東京でも興…

 「日本映画発達史」「講座日本映画」

ここで、1896年と1897年の日本における映画の歴史についても触れていきたい。 その前に、日本の映画の歴史を調べるにあたって参考にした2冊の本を紹介しよう。 1冊は田中純一郎氏による「日本映画発達史」。1976年に発売された本で、すでに書…

 1897年の他の状況

1897年末にアメリカから撤退することになるリュミエール社だが、世界各地へ撮影技師を派遣し、そのカタログには各国のフィルムの名前が増えていった。 フランスのパテ社はこの年、大手金融グループの支援を受け、映画の興行会社へと拡大していく。また、…

 1897年の映画興行

この頃の映画興行は、今のように映画館で行われていたわけではない点に注意しておく必要があるだろう。 この頃の映画は、ミュージック・ホールといった場所で他の出し物と一緒に上映されていたり、露天興行師や巡回見世物業者によって上映されていた。映画専…

 特許戦争

1896年に特許を取られたアメリカン・ミュートスコープ社のバイオグラフは、エジソンの持つ特許を侵害しないもののはずだった。それは、かつてエジソン社で開発に携わっていたディクソンが、バイオグラフ開発に関わっており、確実なはずだった。だが、事…

 アメリカの保護政策とリュミエール社の撤退

1897年末にリュミエール社はアメリカから撤退することになる。その要因の1つには、映写技師の不足から、リュミエール社が契約どおりにフィルムを提供できなかったというリュミエール側の理由もあるが、一方でアメリカの保護政策があった。 当時のアメリ…

 ジョルジュ・メリエスの活躍(2)

メリエスはトリック映画の他にも喜劇や、ニュースを再構成した作品などを製作した。ニュース映像というものがまだ存在せず、ニュースを伝えるための写真の活用もあまり行われていなかった時代に、ニュースを再構成した作品は成功を収めた。 といっても、18…

 ジョルジュ・メリエスの活躍(1)

映画が危機に陥った中、活躍したのがジョルジュ・メリエスである。メリエスは奇術師であり、奇術が行われている舞台を撮影したりしていたのだが、ある出来事からフィルムをつなげたトリックを思いつく。ある出来事とは、撮影中にカメラが故障してしまい、修…

 フランスにおける映画の危機

1895年12月のシネマトグラフの公開から1年以上が経過した1897年。フランスにおいて映画は停滞を迎えていた。シネマトグラフよりも質の悪い様々な機械による興行は、物珍しさを失った後も繰り返し観客を呼ぶほどの魅力を提供できなかった。シネマ…

 1896年までの他の状況

1896年までの状況は、決してリュミエール兄弟とエジソン社、アメリカン・ミュートスコープ社のみによって成立しているわけではない。 後に、映画製作者として華々しい活躍をするジョルジュ・メリエスは、リュミエール社にシネマトグラフの購入を断られた…

 シネマトグラフのアメリカ進出とバイオグラフ

ヴァイタスコープの成功は長くは続かなかった。その理由はライバルたちにある。 1896年6月、アメリカ国外のライバルであるリュミエール社のシネマトグラフがアメリカで公開される。ヴァイタスコープよりも映写の質が高かったシネマトグラフは高い人気を…

 ヴァイタスコープ(2)

1896年4月、ヴァイタスコープはエジソンの発明として記者公開される。数週間後にはニューヨークで一般デビュー。このとき、称えられるエジソンとは対照的にアーマットは映写室にこもって機械の操作に汗を流した。 ヴァイタスコープは興行的に成功を収め…

 ヴァイタスコープ(1)

まだ、アメリカにシネマトグラフが輸入される以前の1896年の初頭、ミュートスコープの人気とキネトスコープの凋落により、窮地に陥ったラフとギャモンに救世主が現れる。それは、エジソンではなく、トーマス・アーマットという人物だった。彼は、上映式…

 リュミエール社作品集 まとめ(7)

このような作品を撮影したリュミエール社だが、作品の制作をやめることとなる。リュミエール社は、作品を作って興行成績によって収入が変わるというやくざな仕事ではなく、機械やフィルムの販売という堅実な道を選ぶ。 リュミエール兄弟は基本的に技術者であ…

 リュミエール社作品集 まとめ(6)

世界各地を撮影したフィルムを見ると、映像の持つメディアとしての役割の大きさを感じることが出来る。「百聞は一見にしかず」ということわざが正しいことがわかるだろう。映画が物語を語るものとして発展していった後も、世界各地でロケをして珍しい光景を…

 リュミエール社作品集 まとめ(5)

日本人として興味深かったのは、当然日本を撮影したフィルムである。日本を撮影したフィルムは他の国のフィルムと比較すると多い。これは、当時のヨーロッパの美術界などでちょっとした日本ブームが起こっていたということや、ヨーロッパから遠く離れた日本…

 リュミエール社作品集 まとめ(4)

350本強のリュミエール社の作品を見て、私が最も興味を引かれたのが、「各地の珍しい光景」である。特にフランスが植民地としていたアルジェリアやベトナムの光景を撮影したものが興味深かった。 私はアルジェリアやベトナムの作品を見て、「植民地支配」…

 リュミエール社作品集 まとめ(3)

エジソン社のキネトスコープ用の作品が、ブラック・マライアと呼ばれる撮影所の中で撮影されたものであったために、屋外に飛び出して撮影されたリュミエール社の作品は、確かにそれまでのキネトスコープの作品と比べると、リアリズムを感じる。だが、よく見…

 リュミエール社作品集 まとめ(2)

リュミエール社の作品は約1分である。これは、当時のロールフィルム1本分の長さだ。画面は固定されており、途中で編集はない。1分間、同じ視点で撮影された作品がほとんどだ。中には、船や列車、エレベーターや動く歩道などにカメラを載せた移動撮影を行…

 リュミエール社作品集 まとめ(1)

リュミエール社の作品はカタログに記載されているもので、約1400本ある。カタログ未記載の作品もあるので、総本数はもっと多くなる。しかも、驚くべきことに、そのほとんどが現存しているのである。同時期に制作された他の会社のフィルムがかなり消失し…

 リュミエール社作品集(72)

「繁華街」 マルセイユの街並みの様子を撮影。 DVDのパッケージでは「繁華街」、本編では「大麻畑」と言われている。 ナレーションでは「この辺には大麻畑があった」と言っているが、これが大麻が蔓延していたことの比喩なのかがよくわからない。 「工場…

 リュミエール社作品集(72)

「悪魔の鍋」 トリック映画。火にかけた鍋に子供も間違って入れてしまった男。鍋の中から悪魔が突如現れ、男を叱りつける。悪魔は男を鍋の中に入れ、瞬時に消してしまい、自らも姿を消して去っていく。 つなぎ目があまりよくわからないよく出来たトリック映…

 リュミエール社作品集(71)

「蛇踊り」(1897) 前にもあった踊りの別バージョン。 今回は男性が演じており、また彩色は施されていないためモノクロである。 彩色されていた方が、色の変化もあって見ていておもしろいように思える。 「スキー演習(1)」(1903) 山岳部隊がス…

 リュミエール社作品集(70)

「ルーマニアの国王夫妻とその護衛」(1897) ブカレスト。国王夫妻のパレードと、それを見守る人々の様子を撮影。 また、例によって国王夫妻の姿はよくわからなかった。 「サルディーニャ島の伝統的な騎馬パレード」 民族衣装を来た人々の騎馬パレード…

 リュミエール社作品集(69)

「ベイルート:大砲広場」(1897) レバノン。広場を歩く人々の様子を撮影。 徒歩の人ばかりで、馬車などの車が見られないのが他の広場や通りを撮影したものとは異なる。だが、撮影されているのは広場のため、別の通りでは馬車も走っていたのかもしれな…