2006-01-01から1ヶ月間の記事一覧

 エドウィン・S・ポーターの活躍

この年、エジソン社に所属していたエドウィン・S・ポーターは「アメリカ消防夫の生活」と「大列車強盗」「アンクル・トムの小屋」という3本の作品を監督している。 ポーターは1900年頃にエジソン社に入社した人物で、映写技師などを務めた後に監督を努…

 日本映画(1902年)

当時、日本では国内で製作されたフィルムよりも、外国から輸入されたフィルムの上映の方が多かった。そんな中、吉沢商店がアメリカから輸入したフィルムを明治座で公演する際に、蓄音機を使ってレコードによる映画説明を行った。弁士の代わりをレコードが果…

 その他の状況

イギリスでは、G・A・スミスが赤と緑の二色の回転フィルターによる「キネマカラー」を開発を開始し、アメリカ人のチャールズ・アーバンと商業化を図っている。 ドイツでは、オスカー・メスターが大作「サロメ」を発表している。「サロメ」は、パテ社の長篇…

 特許戦争 バイオグラフ社の逆転勝訴

1901年にエジソン社が勝利した特許戦争は、この年にバイオグラフ社が控訴審で逆転勝訴を勝ち取る。これにより、再びアメリカでは自由に映画を撮影できるようになった。エジソン社はそれでも諦めず、敗訴した控訴審でもエジソンの特許と認められた仕組み…

 パテ社の映画制作

フェルディナン・ゼッカを擁するパテ社は、「アリババと40人の盗賊」など、この年も多くの作品を製作し、量の面で映画界をリードしていた。 ジョルジュ・サドゥールは「世界映画全史」の中で、「フランスでは、質においてはメリエスが首位を占め、量におい…

 「エドワード七世の戴冠式」

この年、ロンドンでイギリスの国王エドワード七世の戴冠式が行われた。ジョルジュ・メリエスはこの戴冠式を再現した「エドワード七世の戴冠式」も撮影している。 メリエスは教会のシーンをセット撮影するために、ロンドンに調査に赴いた。メリエスの撮影所に…

 映画評「月世界旅行」(3)

本「死ぬまでに観たい映画1001本」の特典DVDに収録されていたバージョンには、旅行隊が帰ってきた後の凱旋パレードの光景も含まれている。このシーンがあるバージョンと、ないバージョンがある。その秘密は、凱旋パレードで運ばれている宇宙船に、「…

 映画評「月世界旅行」(2)

カメラが持っている機能を必要以上といってもいいほど駆使しているこの作品には、メリエスが楽しんで撮影している様子が目に浮かぶようだ。カメラというおもちゃを与えられたイマジネーション溢れる人物が撮った作品という印象を受ける。 カメラの機能を単純…

 映画評「月世界旅行」(1)

1902年・フランス 監督・脚本・出演 ジョルジュ・メリエス 歴史的に価値のある作品だが、誤解されて受け入れられている部分も多い。たとえば、この作品は世界初の物語映画ではない。物語映画は、メリエス自身もこの作品より前に製作している。また、メリ…

 「月世界旅行」

ジョルジュ・メリエスはこの年、後世まで語り継がれることになる作品「月世界旅行」を撮影している。H・G・ウェルズとジュール・ヴェルヌを混ぜ合わせ、夢幻劇の伝統的なスタイルを採用している。 この作品は興行的に大成功を収めた。にも関わらず、海賊版…

 映画専門館のオープン

4月、ロサンゼルスに映画専門館のエレクトリック・シアターがオープンしている。 それまで映画専門館がなかったわけではないが、数は少なかった。多くはミュージック・ホールのような盛り場、露天興行師、巡回興行師によって上映されていた。しかも、これら…

 その他の状況

フィンランドでは、常設映画館キネマトグラフ・インテルナショナル開設されている。フィンランド初の常設映画館だったという。

 特許戦争 エジソン側の勝訴判決

和解が決裂し、再び法廷闘争へと突入した特許戦争は、この年エジソン側の勝訴判決が出ている。この判決は、エジソンの撮影機の特許が認可された1897年8月にさかのぼってエジソン社に慰謝料を払わなければならないことを、バイオグラフ社に求めるものだ…

 ジョルジュ・メリエス(1901)

ジョルジュ・メリエスは、「赤頭巾ちゃん」「青ひげ」といった有名なストーリーの長編作品を製作している。ちなみに、メリエスはこういった長編作品のほかにも短編喜劇映画も多く製作したらしいが、後世には残っていない。喜劇の分野では他の会社に負けてい…

 ブライトン派−イギリス

ブライトン派の1人、ジェームズ・ウィリアムソンは「泥棒待て!」「大飲み」「火事だ!といった作品を撮影している。 「泥棒待て!」は追っかけ映画だが、3つのショットにわたって追っかけが続けられるという点で新しい作品だった。 「大飲み」はトリック…

 フェルディナン・ゼッカの映画製作

パリ万博での仕事によってパテの信頼を得たゼッカは、この年から映画製作を始めている。その作品の多くは、ジョルジュ・メリエスやイギリスの人々の剽窃だったという。トリック映画、再現されたニュース映画、数多くの喜劇映画などをゼッカは撮影していた。 …

 特許戦争、和解と決裂

エジソン社とバイオグラフ社(旧:ミュートスコープ社)との裁判による争いは1900年に和解を迎えることになる。これはバイオグラフ社がエジソン社に申し入れたもので、エジソンを映画の発明者と認めた上で、エジソン社の保有する権利をバイオグラフ社が…

 1900年のその他の状況

オーストラリアではこの年、オーストラリア初の劇映画「十字架の戦士が」製作されている。布教を広げていた救世軍による作品で、救世軍創設者の息子ジョゼフ・ペリーによって作られた。殉教と救世の活動を描いたプロパガンダ映画だったという。 フィンランド…

 ジョルジュ・メリエスの「ジャンヌ・ダルク」

ジョルジュ・メリエスは「ジャンヌ・ダルク」を撮影している。歴史の参考資料に忠実に撮影されたというこの作品は、商業的にも成功を収めた。

 ブライトン派−イギリス

イギリスで撮影を行っていた人々が、後々まで語り継がれる作品をこの年より製作を始めている。その作品の先駆性により、彼らは「ブライトン派」と呼ばれるようになる。 ジョージ・アルバート・スミスは、この年に映画製作会社と契約し、その契約金で撮影所を…

 パリ万博とパテ社とゼッカ

パリ万博にはフランスの映画会社のパテ社も出展していた。パテ社が出品したのは、蓄音機であった。出展自体は映画とは関係ないが、パテ社はここで重要な人物を雇い入れることになる。フェルディナン・ゼッカだ。ゼッカはこれまで、独白の専門家として蓄音機…

 パリ万国博覧会

1900年はパリで万国博覧会が開かれた年である。万博は(少なくとも当時の万博)は、世界の最先端の科学技術を見られる場所であり、映画関連の技術も多く発表されていた。 シネマトグラフの成功から5年が経ていたリュミエール兄弟は巨大なスクリーンへの…

 ジョルジュ・メリエスの超大作とその他の状況

ニュース映画といえば、ジョルジュ・メリエスもトリック映画を撮影する一方で、再現されたニュース映画も撮影していた。その代表作とも言える「ドレフュス事件」が1899年に製作されている。実際の写真を基にして画面の構成などが練られたこの映画は15…

 バイオグラフ社とニュース映画

アメリカン・ミュートスコープ社はこの年にアメリカン・ミュートスコープ・アンド・バイオグラフ社に名称を変更している。そのバイオグラフ社のディクソン(かつてエジソン社にいてキネトスコープ開発に携わったあのディクソン)は、ボーア戦争の様子を撮影…

 特許戦争続く

法廷に持ち込まれた特許戦争は、エジソン社側が映画の発明者がエジソンであることを主張するのに対し、アメリカン・ミュートスコープ社は多くの同時期に映画の開発をしていた人々の例を挙げてエジソンが唯一の発明者ではないことを証明しようとしていた。 審…

 1898年のその他の状況

1898年においては、ジョルジュ・メリエスは幻想的な映画にするためのテクニックに磨きをかけていた。ミニチュア撮影、二重焼き、多重露出、マスク、移動撮影(対象に近づいたり離れたりすることで、画面上の人物が大きくなったり小さくなったりした)と…

 リュミエール社が独占体制を放棄(2)

リュミエール兄弟は、映画自体に未来があるとは信じていなかった。流行っては、すたれていく数多くの新しい見世物の1つとして考えていたようだ。リュミエール兄弟はこの後、立体映画や巨大スクリーンへの上映へと力を注いでいく。彼らは、技術者であり、研…

 リュミエール社が独占体制を放棄(1)

映画の父として後世まで名前を残すリュミエール兄弟によるリュミエール社は、シネマトグラフの機械を販売するのではなく、撮影・上映技師を世界中に派遣し、興行・撮影を行うという方式をとってきた。 1898年9月に、リュミエール社は装置の販売を解禁す…

 トリック撮影によるニュース映画

1898年4月、米西戦争が勃発している。この際、幾人かのアメリカの映写技師が戦闘シーンを撮影しようとキューバに向かったが、軍によって撮影を拒否されている。実写での映画撮影が不可能と分かった人々は戦闘シーンを演出して撮影した。エジソン社、ア…

 エジソン社、ミュートスコープ社を訴える

再び、外国の話に戻る。1898年のこと。 アメリカで起こっていた特許戦争は新しい局面を迎えていた。1898年5月、エジソン社は最大のライバル会社であるアメリカン・ミュートスコープ社を訴えたのだ。他の中小の映画会社とは異なり、エジソン社と対抗…