2006-05-01から1ヶ月間の記事一覧

 ロシアの映画製作

フランスのパテ社は当時、各国において国民的性格をもつ映画の製作を組織する戦略で映画製作を行っていた。ロシアではこの年、ワシーリ・ゴンチャロフを雇い入れ、カイ・ハンセンと共同で「ディミトリ・ドンスコイの生涯における一つのエピソード」(190…

 文芸作品の波及 イタリア、デンマーク

フランスで隆盛した文芸映画作品は、イタリアにも飛び火した。アンブロージオ社は、「黄金シリーズ」と題し、文芸映画を製作した。 アンブロージオ社では、ルイジ・マッジ監督「偽証の女」(1909)が製作されている。この作品から、書割や安っぽいセット…

 フランス、文芸作品の行方

昨年設立されたフィルム・ダール社は、「ギーズ公の暗殺」(1908)で批評家の賛辞を浴びたが、興行的には失敗し、この年の6月の段階で8万フランの赤字を出した。責任を取る形で社長が代わり、劇作家のポール・ガヴォーが社長に就任した。ガヴォーは、…

 アドルフ・ズーカーの危機

当時、映画館の経営者だったアドルフ・ズーカーは、この年経営危機に陥ったが、パテ社製作の「我らが主なるイエス・キリストの生涯と受難」(1907)の上映で乗り切った。以後、ズーカーは自分の映画館にはヨーロッパ映画を上映し、他の映画館が週替わり…

 アメリカにおける検閲

1907年、シカゴでは警察が検閲を行うことが出来る条例が制定されていたが、実際には使われることがなかった。だが、1909年には、シカゴの少年保護協会が条例強化を提起し、警察当局が検閲するようになった。 1909年末、シカゴの映画館主が検閲に…

 D・W・グリフィスの活躍(3)

この年の11月に、グリフィスの撮影隊はカリフォルニアで撮影を行っている。小さなスタジオでは難しかったアングルの変化が容易となり、カリフォルニアの自然風景や遺跡を使用した作品を撮影することができ、以後、毎年冬になるとカリフォルニアで撮影する…

 D・W・グリフィスの活躍(2)

グリフィスは、カメラマンのビリー・ビッツァーと一緒に、人工照明の表現力豊かな利用法を研究した。「エドガー・アラン・ポー」「政治家の恋物語」「大酒飲みの回心」「ピッパが通る」(1909)では新鮮味のあるライティングを見せているという。例えば…

 D・W・グリフィスの活躍(1)

バイオグラフ社で監督を行ったD・W・グリフィスは、演技を重要視して、俳優集団を抱えていた。ちなみに、後にキーストン社においてドタバタ喜劇で一時代を築くマック・セネットも、この年からグリフィス作品に出演している。 そのグリフィスが重視した俳優…

 MPPC加盟社の活動(3)

MPPCの中でも大きな規模を誇ったヴァイタグラフ社は、主にブルックリンのスタジオで映画製作を行った。かつては創立者でもあるスチュアート・ブラックトンが唯一の監督だったが、ブラックトンが数人の監督を統制する形で映画を製作していた。1909年…

 MPPC加盟社の活動(2)

マックス・アンダーソン(設立者でもある)が扮した「ブロンコ・ビリー」シリーズが人気を呼んでいたエッサネイ社は売上高ではエジソン社、ヴァイタグラフ社に次ぐ会社として活躍した。また、エッサネイ社は昨年からカリフォルニアでも映画製作を行っており…

 MPPC加盟社の活動(1)

MPPCは加盟社の製作尺数を調整するだけで、内容は自由に任されていた。 スター・フィルム社は、ジョルジュ・メリエスはフランスで映画製作を行っており、この年も「気紛れな幻想」(1909)といった作品を製作したが、10年前から変わらないメリエス…

 ヨーロッパにおけるカルテルの挫折(2)

ヨーロッパで模索されたカルテルCIDEFはすぐに挫折することになる。その理由は、いくつかある。「フィルムの4ヶ月間の貸し出し後に返還」という規定には、興行者やレンタル業者が反対した。興行者やレンタル業者にとっては、発売から数年たった作品で…

 ヨーロッパにおけるカルテルの挫折(1)

ヨーロッパでも、アメリカのMPPCを真似たカルテルの形成を模索され、2月にパリでジョルジュ・メリエスを議長とする会議が開催された。 この会議では、MPPCと似た国際映画製作販売業者委員会(CIDEF)の設立が決定された。準備会議ですでに決定…

 MPPCと独立系の映画製作会社の対立(3)

アメリカの独立系の映画会社は、リュミエール社からフィルムを輸入し、足りない分はイーストマン社のフィルムをリュミエール社のものと見せかけ転売した。イーストマン社は売れればよかったので黙認していたという。機械はMPPCの保有する特許を使用して…

 MPPCと独立系の映画製作会社の対立(2)

1909年3月、アメリカ国内でMPPCに反対する人々はカール・レムリを中心に独立映画連盟を設立した。外国のフィルムを輸入して配給していたが、映画の本数が足りなくなり、レムリは映画製作会社のインディペンデント・モーション・ピクチャー社(IMP…

 MPPCと独立系の映画製作会社の対立(1)

昨年、アメリカにおいて、エジソン社を中心に結成されたカルテルであるMPPC(モーション・ピクチャー・パテント・カンパニー)は、この年の1月1日より営業を開始している。MPPCの営業開始は、MPPCに反発する映画会社とMPPCとの対立の幕開…

 日本 エム・パテー商会の活動(1908)

輸入映画や実写映画の上映を行っていたエム・パテー商会も映画製作を開始している。東京・大久保のテント張りの撮影所で、中村歌扇一座という少女歌舞伎の芝居を撮影された「曾我兄弟狩場の曙」(1908)がそれである。 この作品は、エム・パテーの配給館…

 日本 横田商会の活動(1908)

吉沢商店に対して、外国映画の輸入を行っていた横田商会も自社での映画製作を開始している。横田商会では、フィルムを節約するために秒速7,8コマで撮影されており、映写の際には「バッタの踊りのようだ」と笑われた。 そんな横田商会は、横田商会の映画を…

 日本 吉沢商店の映画製作

また、吉沢商店は菊地幽芳原作の「己が罪」を映画化している。この作品は原作のサワリを撮影したものだが、神奈川県の片瀬および江ノ島でロケ撮影が行われている。初のロケを行った日本映画とも言われている。カメラマンは千葉吉蔵が努めたが、演出について…

 日本 吉沢商店の目黒撮影所

吉沢商店はこの年、日本初となる撮影所を目黒に完成させている。太陽光を利用するために屋根と周囲をガラス張りにしたグラス・ステージで、四間に四間半というごく小さいものだったが、カメラの引きができるようになっていた。設計は吉沢商店の経営者である…

 中国初の常設映画館

この年上海に、中国初の常設映画館である蛇口大戯院が建設されている。スペイン商人の手によって建設されたこの映画館は、成功を収めた。

 映画製作の変化(1908)

1908年まで、生フィルムの製作はイーストマン社が独占して行っていた。だが、映画製作の面で市場を独占する勢いだったパテ社が、生フィルムの製造を始めている。 これまでパーフォレーション(フィルムを送るためにフィルムの両端に空けられた穴)の不揃…

 ヨーロッパにおける映画興行

フランスにおける映画興行の面でも、パテ社が活躍した。1908年当時、パリには50館ほどの映画館が存在していたが、そのうちの4分の1ほどをパテ社が所有し、同時に地方での興行も強化していた。しかし、フランスの映画興行の発展はゆっくりとしていた…

 イギリス、ドイツ、チェコなどの映画製作(1908)

イギリスでは、イギリスの伝統ともいえるドキュメンタリー主義的な作品が撮影されていた(1906年のウェルマン北極探検隊に同行したが、極地にたどりつけず、フィルムも未公開に終わった)。「ゴールウェイ県の牛追い」(1908)はウィリアム・ポール…

 ロシアの映画製作(1908)

劇映画を製作していたドランコフは、「ステンカ・ラージン」(1908)をこの年発表している(初の「国産」映画と言われている)。18世紀を舞台に、貴族とツァーリに対してコサックと農民の蜂起を描いたこの作品は成功を収めた。この作品は、有名な酒歌…

 イタリア映画と「ポンペイ最後の日」

イタリアでは多くの映画会社が設立され、映画製作は順調に行われていた。映画はマンネリ化によって、世界的に観客離れを起こしていたが、イタリア映画は文芸物や歴史物で人気を得ていた。 解散したカルロ・ロッシ社にいたジョヴァンニ・パストローネが設立し…

 カリフォルニアでの映画製作

シカゴの映画製作会社であるシーリグ社はこの年、映画会社の中では初めてカリフォルニアで映画製作を行ったという。製作された作品は「モンテ・クリスト伯」(1908)で、フランシス・ボッグスが監督している。シーリグ社はエジソン社を中心としたMPP…

 映画と著作権

この年、シカゴではカーレム社という会社が、1899年にブロードウェイで舞台化された小説「ベン・ハー」を映画化した。カーレム社は映画化権を取得せずに映画を製作していたが、このこと自体は当時の映画界では珍しくないことだった。しかし、カーレム社…

 D・W・グリフィスの監督デビュー(3)

グリフィスによる映画の変革はその萌芽を見せていた。テリー・ラムゼイはこの頃のグリフィスについて次のように語っている。「グリフィスはスクリーンの統辞法に磨きをかけた。1908年まで、動く映像はそのアルファベットをたどたどしく綴るだけであった…

 D・W・グリフィスの監督デビュー(2)

グリフィスは監督になってから、撮影方法に工夫を凝らし、「インディアンと子供」「黄金が好きで」(1908)といった作品では、クロース・アップに近い距離での撮影を行っている。また、「幾年月の後」(1908)では、クロース・アップに加えてテンポ…