2006-06-01から1ヶ月間の記事一覧

 続くMPPCと独立系の映画製作会社の対立(3)

MPPC側の映画製作会社たちは、独立系の映画会社ほど質的にも量的にも大衆を満足させることができなかった。 そんな状況に加えて、社会的な状況も独立系側に動いていた。1911年秋、配給業者だったウィリアム・フォックスはジェネラル・フィルム社との…

 続くMPPCと独立系の映画製作会社の対立(2)

当時の状況を、ジョルジュ・サドゥールは次のように語っている。「1910年に映画は単純な動く写真の域を脱していた。大衆はすでにお好みの主題や俳優を持っており、その製作会社のマークよりも映画の題名で上映番組を選択した。ヴァイタグラフ社を除いて…

 続くMPPCと独立系の映画製作会社の対立(1)

アメリカではMPPCが独立系の映画会社に押されていた。1911年には、トラスト側が40万メートルの映画を製作していたのに対し、独立系は30万メートルの映画を製作していたという。 MPPC側にとっては、大きな打撃となる出来事もこの年にあった。…

 日本 伊藤博文暗殺フィルム

1909年に殺害された伊藤博文の様子を偶然ロシアのカメラマンであるコプツォフが撮影していたフィルム(497フィート)が、この年両国国技館で上映されている。コプツォフも「伊藤公遭難当時の感想」と題して、後援も行っている。(映画本紹介)日本映…

 日本 ルナパークの建設

老舗の映画会社である吉沢商会の河浦謙一がこの年、ニューヨーク・コニーアイランドの遊園地ルナパークにならった、総合娯楽場ルナパークを浅草に建設している。 ルナパークには南極旅行館、天文館、海底旅行館、自動機械館、木馬館、植物温室などの施設とと…

 田中純一郎の見解(1910年頃の日本映画)

この頃の日本映画について、「日本映画発達史」の田中純一郎は次のように語っている。ちなみに、田中純一郎は、陰ゼリフについては、映画の発展を阻害したものとして、その価値をほとんど認めていない。「明治の日本映画は、どこまでも演劇の代用だとしか思…

 日本 4つ目の巨大映画会社「福宝堂」

吉沢商店、横田商会、エム・パテーといった大きな映画会社の中に、この年、「福宝堂」という会社が仲間入りしている。 福宝堂は田畑健造が設立した会社である。東京都内には常設映画館を一区内一館限りという警視庁の内規があった(実際は適用されなかった)…

 日本 再出発したエム・パテー商会

エム・パテーの大久保撮影所では、「日蓮上人御一代記」(1910年)が製作されている。一万尺で、67場面という大作だったが、評判はよくなかった。 そんなエム・パテーは関西方面で不渡りを出し、整理されることとなる。整理後、1911年1月から、資…

 日本 尾上松之助の活躍−1910年

尾上松之助映画を製作していた横田商会はこの年、京都に敷地約300坪の撮影所を建設している。撮影所といっても、二間に四間くらいの板敷きの舞台を作り、その上に開閉できる天幕を張り、自然光を使って撮影が行われた。撮影所の土地は元々京都の侠客・千…

 ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン−1910年

光学機器の大量生産を得意としていたドイツは、1910年頃に優れた映写機を市場に出し、中央ヨーロッパやロシアではパテの映写機に取って代わっていくことになる。 そのドイツでは、リュミエール兄弟が開発した機械名である「シネマトグラフ」という言葉は…

 その他の国々(1910)

イギリスの映画製作は苦戦を強いられていた。 1910年にイギリスで公開された映画の割合は、パテを中心としたフランス映画36%、アメリカ映画28%、イタリア映画17%、イギリス映画16%だったという。イギリスの映画人口は増えて産業としては栄え…

 ロシアの映画製作−1910年

ロシアの映画館では、第一次大戦前まで、フランスのパテ社の作品がスクリーンを占めていた。ロシアでも映画製作は行われていたが、外国の会社によってロシアで製作された映画の方が、ロシアの会社の製作本数より多かった。 パテ社は、前年よりワシーリ・ゴン…

 デンマークにおけるアニタ・ニールセンのデビュー

ノーディスク社を中心に発展を見せていたデンマーク映画界では、国際的な人気を得た女優であるアニタ・ニールセンがデビューしている。デビュー作は「深淵」で、ウアバン・ギャズが演出を担当した。ギャズは、ニールセン専門の演出家として活躍していく。 ニ…

 セグンド・デ・チョモンとエミール・コール

セグンド・デ・チョモンはこの年、パテ社の委託で、ルイ・ガスニエとともにスペインの映画製作会社を組織した。この映画製作会社は、大スペクタクル、喜劇、夢幻劇を製作した。トリック映画は少数だった。スペイン的な映画を作り上げることに貢献したと言わ…

 フランス喜劇(2)

マックス・ランデー以外では、プランス=リガダンという人物がこの年からパテ社で活動を開始している。演出家のジョルジュ・モンカと共同で第一次大戦中も継続して7,8年作品を製作していく。作品間に連続性はなく、プランス=リガダンはさまざまな役柄を…

 フランス喜劇

文芸映画シリーズで結果を出せなかったフランスは、喜劇の分野で結果を出している。その中心となった人物はマックス・ランデーだった。 それまでフランスで人気を得ていたアンドレ・デードがイタリアの映画会社へと移籍したために、すでに喜劇に出演していた…

 文芸映画シリーズとイタリア映画

フィルム・ダール社による「ギーズ公の暗殺」によって火のついた文芸映画シリーズの製作ブームだが、フランスでは大きな成果は生み出せずにいた。 パテ社はこの年、フィルム・ビブリック社を設立してアンリ・アンドレアーニを中心に、文芸映画シリーズを製作…

 スターの引き抜き合戦(2)

また、メアリー・ピックフォード、ピックフォードの婚約者のオーウェン・ムーア、トマス・H・インスらがバイオグラフ社からIMPへ移籍している。ピックフォードは、バイオグラフの週給75ドルから125ドルとなった。この時レムリは、「可愛いメアリは…

 スターの引き抜き合戦(1)

MPPCと独立系映画製作会社の戦いは、スターの引き抜きという形でも現れている。MPPC側の映画会社が抱えていた最良の技術者と俳優たちの獲得を独立系の映画会社が狙ったのだ。 1910年3月、バイオグラフ・ガールの1人だったフローレンス・ローレ…

 MPPC側の映画製作(3)

バイオグラフ社では、引き続きD・W・グリフィスが活躍していた。「因襲打破を唱える人」(1910)では、組合参加の労働者を否定的に描いた。また、南北戦争を扱った作品では南部派の視点を採用していた。1909年から1911年にかけて、戦争を描い…

 MPPC側の映画製作(2)

カーレム社では、監督のシドニー・オルコットをイギリスに派遣し、ヨーロッパの人々やアメリカへやってきた移民向けの作品を演出させたという。 大手のヴァイタグラフ社では、「実生活の情景」を扱った映画を製作し、ヨーロッパでも文芸作品より人気を得た。…

 MPPC側の映画製作(1)

MPPCの中心会社であるエジソン社では、マッド・サイエンティストの代表的作品「フランケンシュタイン」の最初の映画化が行われている。大釜から登場するモンスターは、土葬された死人が数日後に土中からよみがえったような印象だっという。 パテ社は、4…

 アリス・ギィのアメリカでの映画製作

かつて、フランスのゴーモン社で製作責任者として活躍したアリス・ギィは夫と共にアメリカに渡っていた。そのギィは夫のハーバート・ブラシェと共に、ソラックス社という映画製作会社を設立し、第一作の「子供の犠牲」(1910)を製作している。 ソラック…

 MPPCと独立系の映画製作会社の対立

昨年より始まったMPPCと独立系の映画製作会社のアメリカにおける戦いはこの年も続いていた。MPPC側は「ジェネラル・フィルム社」という配給会社を設立し、配給部門を独占することを目論んだ。その目論見どおり、ジェネラル・フィルム社は多くの配給…

 日本 映画専門雑誌の創刊

映画の人気が高まってきたこの年、映画専門の雑誌「活動写真界」が創刊されている。創刊したのは中島新太郎という人物であり、吉沢商店が出資している。16ページから32ページの月刊誌であるこの雑誌は、出資している吉沢商店のPR誌の意味合いもあった…

 日本 陰台詞への対抗 岩藤思雪

前年(1908年)、エム・パテー商会の「曾我兄弟狩場の曙」の上映の際に人気を呼んだ「陰台詞」(画面の役者に合わせて弁士が科白をしゃべる方式)に反対の立場を取った外国映画の弁士岩藤思雪が、叙述的な説明で筋を運ぶ作品「日本桜」を製作している。…

 日本 吉沢商店の試み

吉沢商店ではこの年、目黒撮影所内に俳優養成所を設置した。だが、この養成所には有望な受講生が集まらず、あまり成果は上がらなかった。また、この年には筋書きを一般から公募し、「焼野のきぎす」という作品が選ばれて150円が贈られている。子供の誘拐…

 日本 エム・パテー商会の大久保撮影所

それまでは野外撮影のみを行っていたエム・パテー商会はこの年、大久保に野天の舞台に天幕を張った撮影所を建設している。所属する技師のほとんどは20代で、入所すると映写技師をやって、クランクを回す速度を覚えた。また、フィルムの染色も盛んに行われ…

 日本 牧野省三と尾上松之助

1908年に映画監督となった牧野省三はこの年、歌舞伎俳優の尾上松之助を見出し、「碁盤忠信源氏礎」(1908)で映画に出演させた。尾上松之助は草創期の日本映画界のスターになっていき、「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれていくことになる。 当時、…

 その他の国の状況

アメリカ人のベンジャミン・ブラスキーが亜細亜影戯公司を設立し、映画製作を開始している。 スペインではこの年、フィルムス・バルセロナがフランクトゥオッソ・ヘラベルトによる「グスマン・エル・ブエノ」「思いがけない風呂」(1909)を製作している…