2007-01-01から1年間の記事一覧

 映画評「国民の創生(國民の創生)」 THE BIRTH OF A NATION

デイヴィッド・W・グリフィス社、エポック・プロデューシング社製作 エポック・プロデューシング社配給 製作・監督・脚本・編集D・W・グリフィス 原作トマス・ディクソン 撮影D・W・ビッツァー 出演リリアン・ギッシュ、メイ・マーシュ、ヘンリー・B・ウ…

 エジソン社の作品 1915年(4)

「SANTA CLAUS VS. CUPID」 あるクリスマス・パーティを舞台に、1人の女性を巡ってサンタ・クロースの格好で口説こうとする2人の青年の物語と、貧しさと妻の病気に悩み盗みに入ろうとする中年男性の物語が交錯する。 登場人物が多く複雑な話を15分という短…

 エジソン社の作品 1915年(3)

「THE LONE GAME」 ある兄と妹とその知り合いの3人の登場人物が結核にかかる。兄は不適切な治療で死亡し、知り合いは金持ちだったために適切な治療を受けて治癒する。妹は貧しかったが赤十字の助けを借りて治癒する。歌手を目指していた妹は、自分を助けて…

 エジソン社の作品 1915年(2)

「BLACK EYES」 あるカップルが主人公。お互いに自分の楽しみのために嘘をついて遊びに出かける2人。互いに目を腫らすはめに陥り、同じ病院で治療を受けたことから、互いの嘘が露呈する。最後には仲直り。 教訓的な内容だが、シリアスになりすぎず、またコ…

 エジソン社の作品 1915年(1)

1915年から1918年のエジソン社 エジソンの映写機の販売不振、第一次大戦によるヨーロッパのマーケットの消失、アメリカ国内の興行不振などにより、エジソン社は業績不振に陥る。1918年の3月に、エジソンは映画ビジネスのすべてを安い金額で売り…

 キーストン時代のチャップリン

他のどんな映画人よりも映画史に深く名前を刻み込むことになるチャップリンも、当然のことながら映画界入りした当初は新人だった。キーストン時代のチャップリンを語るとき、そのことを忘れて語ることは、意味のないことだろう。 ヴォードヴィル芸人を両親に…

 日本 アメリカ映画の台頭

この頃から、アメリカ映画が台頭してくるようになり、チャールズ・チャップリンの喜劇やユニヴァーサル社の連続活劇は特に人気を呼んだという。 チャップリン作品は前年から公開されていたが、1915年に「メーベルの困難」が公開されて、日本の観客に強い…

 記録映画 1915年(日本)

この年、11月に行われた大正天皇の即位礼の様子が帝国興行株式会社によって撮影され、「大正天皇御大典」として公開されている。日本で初めて皇室を扱った映画であるが、規制のためか大正天皇本人は映っていない。 また、飛行機が珍しかった時代にあって、…

 日本 天活の活動と連鎖劇

この年天然色活動写真株式会社(天活)は、小林喜三郎と山川吉太郎が重役を辞職し、東西の経営を代行する形を取るようになる。天活で製作した映画を小林と山川の2人が営業するという形になった。 天活は毎月6本の作品を作るという契約を小林と山川と結んで…

 日本 日活の作品 1915年

日活の向島撮影所では、「空中の美人」(1915)という作品が発表されている。活劇もので、花盛りの向島や飛行機の飛行シーンなどが織り交ぜられ、人気を呼んだという。 京都撮影所では、牧野省三監督・尾上松之助主演の作品が量産されており、「怪鼠伝」…

 日本 日活向島撮影所の陣容

1915年頃の日活向島撮影所は次のような陣容だった。所長、会計、庶務兼出張会計、出道具係が各1名。考案部(脚本作者)が桝本清と鬼頭磊の2名。監督が小口忠のみ、助手1名。カメラマン2名、カメラ助手5名、普通写真1名、俳優係1名、大道具5名、…

 ヘイルズ・ツアーズ 「映画」と映画の狭間

ヘイルズ・ツアーズとは、1900年代の中ごろに一世を風靡した映像を使ったアトラクションである。1905年にカンザス・シティを始め、アメリカ東部主要都市の遊園地に設置され、アメリカ人の国民的関心を呼んだ。スクリーンの列車の動きに合わせて、軋…

 オーストラリア映画、その他 1915年

(オーストラリア映画) 第一次大戦の勃発によって、太平洋のドイツ植民地でも戦闘が起こり、オーストラリアも参戦していた。 その影響で、オーストラリア最大の映画会社だったオーストラレイジアン社は、防衛省のバックアップで戦意高揚映画を製作した。新…

 ドイツ映画、イギリス映画、スペイン映画 1915年

(ドイツ映画) ヨーエ・マイは、1915年において最も注目された監督である。「地雷の法則」(1915)によって「ヨーエ・デーブス」という新しい探偵を生み出しシリーズ化する一方で、「シャーロック・ホームズ」も映画化した。ちなみに、フリッツ・ラ…

 デンマーク映画 最後の栄光

1914年(第一次大戦勃発前)、デンマーク映画は最盛期を迎えていた。中央ヨーロッパ、北欧諸国、アメリカに輸出され、アメリカはスター俳優を奪い、主題を模倣した。1915年はデンマーク映画の最後の栄光といえる年だった。製作本数はノルディスク社…

 ロシア メイエルホリドの映画製作

フセヴォロド・メイエルホリドは、芸術座でスタニスラフスキー(演技法で有名)の協力者だったが、スタニスラフスキーとは反対に様式化された演出を行ったという。そんなメイエルホリドは、「ドリアン・グレイの肖像」(1915)を自らの脚色・出演してい…

 ロシア映画 当時活躍した監督たち

第一次大戦開始直後には多くの愛国主義的映画、戦争映画が氾濫していたが、1915年には戦争映画は少なくなり、「ファントマ」風の探偵劇が多くなっていたという。戦争にも関わらず映画製作は繁栄し、1915年には372本、1916年には499本に達…

 フランス アベル・ガンスの胎動

後に監督として大活躍を見せるアベル・ガンスは、1912年に「恐怖の仮面」を少額の資本を集めて製作するが、撮影を失敗し、端役や脚本家に戻っていた。そんなアベル・ガンスは、1915年にフィルム・ダール社によって脚本家として採用されている。 さら…

 フランスの第一次大戦映画

第一次大戦に参戦中のフランスでは、戦争プロパガンダ映画が作られた。ゴーモン社、フィルム・ダール社、パテ社で製作されるが、人気はつかの間のものだった。 一方、戦争の記録のために、1915年に陸軍写真映画部が創設され、映画評論家のジャン=ルイ・…

 フランス映画界の衰退 第一次大戦の影響

フランスはかつて映画製作の中心地であり、その中心にあったのはシャルル・パテ率いるパテ社だった。シャルル・パテは映画について次のように語っている。「シネマトグラフは、軍需産業と並んで、唯一の世界的産業であり、その最大の国がフランスだった。戦…

 イタリア映画 ディーヴァを中心とした映画作り

イタリア映画が得意としたスペクタクル映画は多少作られたが、物資の不足から数が減っていき、イタリア映画はスター女優の「ディーヴァ」を中心とした<3人の登場人物>で済む映画に戻った。 「映画スター=ディーヴァ」という用語を定着させたのは、ローマ…

 イタリア映画 威光が頂点に

イタリアは当時、アメリカに次ぐ世界的な映画製作国としての威光を保持していた。 1915年、フランスのパテ社は世界市場における自社の地位を固めるために、製作が危機に陥っていたフランスを当てにせず、イタリアの映画製作会社と独占契約を結んだと言わ…

 連続映画熱

前年(1914年)に、「ポーリン」(1914)などによって高まった連続映画熱は、アメリカではまだ続いていた。30エピソードからなる「金剛星」(1915)が製作されたり、トラストを批判した「グラフト」(1915)という連続映画作品がユニヴァ…

 ハロルド・ロイドの映画界入り

後年、チャールズ・チャップリン、バスター・キートンと並んでサイレント期の3大喜劇俳優と言われることになるハロルド・ロイドがこの年から短編喜劇に出演するようになる。ハル・ローチのもとで、ロンサム・リュークというチャップリンの亜流とも言えるキ…

 エッサネイ時代のチャップリン映画の特徴

エッサネイ時代に、チャールズ・チャップリンはペーソスを感じさせる作品を作るようになっていく。その代表作が、「チャップリンの失恋」(1915)である。 「チャップリンの失恋」は、チャップリン演じる浮浪者チャーリーが、農園の娘を悪漢から助けてや…

 エッサネイ時代のチャップリン

1914年にキーストン社から映画デビューし、瞬く間に人気を集めたチャールズ・チャップリンは、1915年にはエッサネイ社に移籍して映画製作を行っている。 エッサネイ社との契約により、チャップリンは原作・監督・主演とすべて自らが行うことが出来る…

 ワールド・フィルム社、メトロ社の設立

「風と共に去りぬ」(1939)のプロデューサーとして有名なデイヴィッド・O・セルズニックの父であるルイス・セルズニックが1915年にワールド・フィルム社を設立している。ヴァイタグラフ社のスターだったクララ・キンボール・ヤングを雇い、モーリ…

 アドルフ・ズーカーのフェイマス・プレイヤーズ社とメアリー・ピックフォード

アドルフ・ズーカーのフェイマス・プレイヤーズ社は、メアリー・ピックフォードの作品を中心に映画製作を行っていた。「蝶々婦人」(1915)では、著名な舞台人のデイヴィッド・ベラスコが演出を行った。 メアリー・ピックフォードは当時、大衆の人気を勝…

 セシル・B・デミルの映画製作「カルメン」

「カルメン」(1915)は、舞台でもカルメンを演じたオペラの歌姫ジェラルディン・ファーラーが出演した作品として注目を集めた。2万ドルの出演料、ハリウッド滞在費の全額負担、アメリカを横断する貸切車両の準備などファーラーは厚遇を受けて撮影され…

 セシル・B・デミルの映画製作「チート」

ラスキー・フィーチャー・プレイ社で西部劇を中心に映画製作を行っていたセシル・B・デミルは、この年社交界ドラマの「チート」(1915)と、文芸作の「カルメン」(1515)を製作している。 「チート」は、三角関係というありふれた話だが、眼や眉で…