2008-08-01から1ヶ月間の記事一覧

 ヴィクトル・シェーストレームの「波高き日」とスウェーデン映画

スウェーデンではヴィクトル・シェーストレームが、ヘンリック・イプセンの戯曲の映画化である「波高き日」(1917)を監督している。 ナポレオン戦争時に、餓えた妻子に食料を運ぶために、イギリスの海上封鎖網を破ろうとした主人公はイギリス海軍に捕ま…

 ドイツ映画のその他の映画人たち

エルンスト・ルビッチは「陽気な監獄」(1917)などを監督している。 後に「カリガリ博士」(1919)などに出演する俳優のコンラート・ファイトがこの頃から映画に出演し始める。それまでは、マックス・ラインハルトの演出のもと、舞台に出演していた…

 ドイツ ヘンニー・ポルテンの人気高まる

第一次大戦の影響を大きく受けていたドイツ映画界では、ヘンニー・ポルテンが第一次大戦勃発時のドイツの唯一のスターとして、オスカー・メスターのアウトーレン・フィルム社で活躍をしていた。 そのヘンニー・ポルテンが出演した「巨人のこぶし」(1917…

 ドイツ映画 ウーファの誕生

ドイツでは、1917年7月に、エーリヒ・ルーデンドルフ将軍のプランで、陸軍省内に写真・映画局(BUFA)が設立された。前線でのニュース撮影、ドキュメンタリープロパガンダ映画を製作したという。 ドイツの映画界は、このように政府の主導の影響を受…

 エフゲーニ・バウエル ある代表的ロシア映画監督の死

エフゲーニ・バウエル監督のハンジョンコフ社による作品「革命家」(1917)は、社会民主党周辺を舞台としたと言われている。 「革命家」を監督したエフゲーニ・バウエルは、「警鐘」「幸福を求めて」(1917)といった作品も監督している。「警鐘」は…

 1917年のロシア映画作品

ロシア革命に揺れた1917年のロシアでは、ニュース映画やドキュメンタリー以外の劇映画も製作されていた。だが、フィルムが不足し、ほとんどの作品は大急ぎで、わずかな資本で製作されたという。 商業映画の分野ではラスプーチンを題材した作品や、社会主…

 ロシア革命と映画への影響

1917年はロシア革命が起こった年でもある。1917年3月、皇帝ニコライ二世が退位に至るロシア革命(暦の問題で3月に起こったが「二月革命」と言われる)は映画にも影響を与えた。3月には、2,000人が集まった映画人の集会がモスクワで開かれて…

 衰退するイタリア映画

イタリアでは「ディーヴァ」と呼ばれた人気女優が主演するメロドラマが多く作られていたが、人気女優のスター主義に陥っていき、徐々に衰退していった。 その他の分野では、ザ・ラ・モールというヤクザ者をボスにした2本のシリーズ物で人気を得ていたエミリオ…

 その他のフランス映画

フィルム・ダール社で映画を製作していたアンリ・プークタルは、この年「巌窟王」(1917)を監督している。物語は簡単だが、カット割り、照明、風景などがすばらしかったといわれている。 ルイ・メルカントンは、大女優サラ・ベルナール主演の「フランスの…

 フランス ジャック・フェデーの下積み監督時代

映画監督として前年にデビューしていたジャック・フェデーは、「底なしの谷間」(1917)という「モンテ=クリスト伯」から着想を得た物語を監督している。当時の著名な劇作家であるトリスタン・ベルナールと協力して作られた作品だったが、一般的には、…

 フランス映画の筆頭監督アベル・ガンスの活躍

フランスの映画監督の筆頭ともいえる活躍を見せていたアベル・ガンスは、「死の地帯(死線)」(1917)を監督している。娘に恋した老人の物語に、魔法使いや宇宙の破局などが絡む大仰な脚本の「死の地帯」は、商業的には当たらなかった。だが、この年、…

 フランスの戦争映画

第一次大戦が続いていたフランスでは、1917年から大戦に焦点をあてたドキュメンタリー映画が公開されている。大戦後、ドキュメンタリー映画を製作した陸軍映画部は株式会社となり、記録資料は陸軍博物館に預けられたが、第二次大戦時にドイツ軍によって…

 その他のアメリカ映画

西部劇のスターとして活躍していたウィリアム・S・ハートは高まる人気もあり、自らのプロダクションを設立して映画製作を行うようになっていた。ハートの作品はフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーの配給によって公開された。 (映画本紹介)アメリカ映画の…

 日本人活動写真俳優組合の設立と早川雪洲

当時のハリウッドでは、日本や日本人を扱った作品も作られていたが、風俗が誤解されていたりといった理由で日系人の非難を浴びることが多かった。また、ハリウッドの日本人俳優たちは、排日映画に出演したとして日系人の非難の的となった。1917年には「…

 マーガレット・サンガーの産児制限運動と映画

マーガレット・サンガーはアメリカにおける産児制限運動の主導者であり、、「産児制限」という言葉を考案し、避妊方法を広めようとした。当時、避妊の情報はわいせつとみなされ、サンガーは投獄される羽目にも陥ったという。 そんなサンガーは、性教育映画を…

 ウィリス・H・オブライエンの出発

後に「キング・コング」(1933)で、コングの動きをストップモーション・アニメで表現して、「ストップモーション・アニメの父」と言われるウィリス・H・オブライエンが、約5分の短編である「THE DINOSAUR AND THE MISSING LING」を製作している。 元は大…

 ジョン・フォードの監督デビュー

後に西部劇の監督として活躍をしていくこととなるジョン・フォードは、「颱風」(1917)で監督デビューを果たしている。 フォードは1914年に、ユニヴァーサルで監督兼俳優だった兄フランシスを頼ってハリウッドへやってきており、ユニヴァーサルや兄…

 アーヴィング・サルバーグの映画界入り

後にMGMで敏腕プロデューサーとして名を馳せることとなるアーヴィング・サルバーグがこの年、映画界入りしている。 この当時まだ18歳だったサルバーグは、ユニヴァーサルのニューヨーク本社事務員として就職している。サルバーグは速記ができたため、ユ…

 アーバックル、ロイド、シーモン、ローレル&ハーディ・・・その他のコメディアンたち

ロスコー・アーバックルは、バスター・キートンがチームに参加する前にも「デブ君の化けの皮」(1917)などに出演している。 ハロルド・ロイドは、まだ高い人気を得るには至っていなかったが、短編の「ロイドの舞台裏」(1917)などに出演している。 現…

 バスター・キートンのデビュー

チャールズ・チャップリン、ハロルド・ロイドと並んで、サイレント期の3大喜劇王の1人に称されるバスター・キートンがこの年、映画デビューを果たしている。 キートンはニューヨークのブロードウェイの路上でたまたま友人から紹介されて知り合いになった、ロ…

 ウィリアム・フォックス 活動の場をハリウッドへ

積極的に映画製作を行い、セダ・バラの売り出しなどで成功を収めたウィリアム・フォックスはこの年、本拠地を東海岸からハリウッドへと移している。 ハリウッドへ移ってきたフォックスは、スターの獲得に努めた。MPPCの一員の映画会社だったシーリグ社と契…

 モーリス・トゥルヌール 絵画的スタイルの映画監督

モーリス・トゥルヌールはフランス生まれのフランス人で、舞台から映画界入りした人物である。1910年頃から、フランスのフィルム・ダール社とエクレール社の作品に傍役で出演した後、助監督を経て、監督としてエクレール社で活躍(1912−1914)し…

 セシル・B・デミルの歴史物映画

セシル・B・デミルはこの年、「神に見離されし女」「悪魔石」「ヂャン・ダーク」といった作品を監督している。「神に見離されし女」は、スペイン軍によって滅ぼされるメキシコのアズテク族の歴史劇であり、「悪魔石」はデミルの母親の創作による「神に見離さ…

 ダグラス・フェアバンクスの人気と、プロダクション設立

1915年にデビューしたダグラス・フェアバンクスは、この頃になると山の名前に冠されるほどの人気を得ていた。 1917年には、パラマウントと契約し、自作のプロデューサーも務めるようになる。あらゆる人たちを快活にからかった軽喜劇映画13本に出演…

 チャップリンの模倣者たち

1917年は、チャールズ・チャップリンにとって映画製作とは別のアクションを起こした年でもあった。チャップリン映画の模倣者に対して訴訟を起こしたのだ。訴訟の対象となったのは、モノマネ芸人ではなく、自分たちこそがオリジナルだと主張する人々に対…

 チャップリンのファースト・ナショナル社への移籍

ミューチュアル社で映画製作を行っていたチャップリンだが、「チャップリンの冒険」(1917)を最後にファースト・ナショナル社へと移籍することになる。 ミューチュアル社はもちろん、チャップリンと契約を更新しようとした。当時、トライアングル社を清…

 チャップリンのキャラクターの確立

ミューチュアル社で4作品を作ったチャールズ・チャップリンだったが、当時の観客の間には、悪い奴からチャーリーへの移行を望まない者もいた点も指摘されている。1930年代初頭に、悪役的なキャラクターであるキーストン時代のチャップリン映画が「チャッ…

 「移民」 チャップリン映画の集約的作品

チャールズ・チャップリンの「チャップリンの移民」は、ギャグとペーソス、社会批判というチャップリンの映画の主要素としてこの後も受け継がれていくものが詰まった作品として、高い評価を受けている。「フォトプレイ」誌は、「O・ヘンリーの短編にも似た宝…

 チャップリンのミューチュアル社での映画製作

1916年に、エッサネイ社からミューチュアル社へと移籍していたチャールズ・チャップリンは、この年もミューチュアル社で映画を製作している。 ジョルジュ・サドゥールは、1917年からチャップリン映画は変わったと指摘し、次のように書いている。 「<…

 上昇を続けるメアリー・ピックフォードの給料

巻き毛の少女役で大衆の人気を確固たるものにしていたメアリー・ピックフォードはこの年、セシル・B・デミル監督の「小米国人」「THE ROMANCE OF THE REDWOODS」「小公女」(1917)や、モーリス・トゥルヌール監督の「金持ちの哀れな少女」(1917)、…