2009-12-01から1ヶ月間の記事一覧

 日本 森岩雄の胎動

後に日本映画界の重鎮として活躍する森岩雄が、社会教化のための映画を製作していた活動写真資料研究会に入社している。 それまでにも森はシナリオを書いており、活動写真資料研究会のための脚本執筆も行っていたのだという。1921年11月から開かれた第…

 日本 国活 「寒椿」水谷八重子の初映画出演騒動

国際活映(国活)では、「寒椿」(1921)といった映画が製作されていた。「寒椿」は、舞台や映画で革新的な活動をしてきた井上正夫が、海外視察から帰国して最初に主演した映画である。華族の若様に見初められて奉公するようになった娘おすみには、幸福…

 日本 大正活映の映画製作の中止

1920年に設立され、「アマチュア倶楽部」(1920)を製作した大正活映は、「葛飾砂子」「雛祭の夜」(1921)といった作品を製作している。ともに、谷崎潤一郎脚本、栗原喜三郎(ヘンリー栗原)監督のコンビだった。 「葛飾砂子」では、主演の女優…

 日本 日活の変化

日活でも、田中栄三を中心に、映画革新運動が行われていたが、成功はしていなかった。1921年に新たに女優を出演させるなど純映画的な作品製作を行う第三部門を設立した。女形スターの反発もあり、いい作品もできなかったという。女形には、独自の美学も…

 日本 牧野教育映画製作所の設立

日活に所属していた牧野省三だが、日活から離れて自らの作りたい映画を製作したいという気持ちがあった。だが、日活側はなかなか省三の独立を認めなかった。日活で省三は、尾上松之助主演の「豪傑児雷也」(1921)を製作し、大ヒットさせている。「豪傑…

 日本 松竹キネマと野村芳亭 「理想は高く、手は低く」

蒲田撮影所では新派・旧派の声色映画が安く、早く作られ、観客に受けていたという。営業としては高級映画よりも、観客に受ける映画の本数を増やしたがった。 そんな中、田口桜村の後任として野村芳亭が蒲田撮影所の所長格に就任する。 「理想は高く、手は低…

 日本 松竹 ヘンリー小谷と栗島すみ子

蒲田に建設された松竹キネマの蒲田撮影所では、アメリカ帰りの小谷ヘンリーのキャメラ技術とフィルム編集が好評を得ていた。「虞美人草」(1921)では女優として栗島すみ子を起用した。小谷は、映画女優としての基礎がない栗島の歩き方、化粧の仕方、涙…

 日本 松竹キネマ研究所の解散とメンバーたちのその後

3作を製作した松竹キネマ研究所だが、「君よ知らずや」が不入りに終わったため、松竹内部から反研究所の声が聞こえるようになった。結局、儲からないという理由で解散させられている。研究所内でも、経済的に行うべきという島津保次郎や牛原虚彦と、金はい…

 日本 松竹キネマ研究所の設立と「路上の霊魂」

松竹キネマ内に、芸術的な映画製作を目的として作られた松竹キネマ研究所では、1921年に3本の作品を発表している。「路上の霊魂」(脚本・牛原虚彦 監督・村田実)、「山暮るる」(脚本・監督 牛原虚彦)、「君よ知らずや」(脚本・監督 村田実)の3本…

 完全無音映画鑑賞

映画館で映画を見ていて、静寂のシーンになる。すると、途端にちょっとした物音が気になる。咳や食べ物を食べる音はもちろん、ちょっと体を動かしただけで生じる衣擦れの音まで。 映画はかつてサイレントだった。サイレントとは「静寂」「無音」を意味する言…

 我々はなぜ「カリガリ博士」に魅せられるのか?

ビデオ・レンタル店の膝から脛にかけてのゾーンには、時折宝物が隠れていた。新作でもなく、おしゃれでもなく、話題作でもない、多くの作品たちが、そこにはいた。彼らの多くは埃を被り、埃は見てみようかと思う気持ちを削ぎ、さらに埃はたまっていった。 「…

 スペイン映画 サルスエラの映画化

スペインにはオペラの一種で、独特の短編風俗喜劇であるサルスエラという文化がある。スペインでは、有名なサルスエラ作品はたいていの人がストーリーを知っていたという。ある程度の観客を集めることができ、興行的にメリットがあったサルスエラは映画化さ…

 デンマーク カール・ドライヤー「悪魔の書から」

衰退するデンマーク映画界では、カール・ドライヤーが「悪魔の書から」(1921)を発表している。D・W・グリフィスの「イントラレンス」(1916)に影響を受けていると言われ、4つの時代におけるサタンの人間への誘惑を描いた作品である。ドライヤ…

 スウェーデン シェーストレーム「霊魂の不滅」とスティルレル

スウェーデンの代表的監督であるヴィクトル・シェーストレームは、「霊魂の不滅」(1921)を監督・出演した。 死んだ男が死の御者の操る幻の馬車に乗って現世を見ている。妻子の困苦を見た男は後悔の涙を流して生き返り、改心して妻子の元に戻る。だが、…

 イタリア 製作本数が激減

イタリアの映画製作会社は、1919年にUCIとフェルトという2大製作会社に集約されていた、UCIはイタリア映画草創期から活躍していたアルトゥーロ・アンブロージオを製作担当としたが、不振を脱することはできなかった。製作本数は1920年の220…

 イギリス シャーロック・ホームズもの

製作が全体的に不振だったイギリスだが、コナン・ドイル原作のシャーロック・ホームズが主人公の作品が製作されている。モーリス・エルヴィが監督を務めた、短編シリーズの「シャーロック・ホームズ」(1921)である。また、シャーロック・ホームズものの…

 ウーファ社とドイツの映画政策

ドイツでは、1917年に設立されたウーファ社が、ライバル会社を吸収していった。エーリッヒ・ポマーが設立したデクラ・ビオスコープ社も統合されるが、映画製作の自主性は保たれたという。ウーファ社の目的は独占であり、これは政府によっても奨励され、…

 ドイツの「絶対映画」

1920年代のドイツで多く作られていく、非具象的な映像が画面に展開する映画群である「絶対映画」の分野では、ヴィキング・エッゲリングの「対角線交響楽」「平行線交響楽」「水平線交響楽」(1921−1925)やハンス・リヒターの「リズム21」(1…

 ドイツの映画製作 1921年

喜劇の軽妙さと史劇の重厚さを兼ね備えた演出でドイツを代表する監督になっていたエルンスト・ルビッチは、ポーラ・ネグリ主演でエロティシズム溢れる小品コメディ「山猫リュシカ」(1921)を監督している。山の奥に住む山賊の首領の娘リュシカは、一群の…

 ドイツ 表現主義映画の残り火

「カリガリ博士」で火がついた表現主義的な作品としては、体が麻痺した妻を持つ男性が別の娘を愛し、妻を毒殺しようとする物語である「性の焔」(1921)という作品が公開されている。マックス・ラインハルトの元で育ったフリードリヒ・フェーエルが監督…

 ドイツ フリッツ・ラングの「死滅の谷」

フリッツ・ラングは、ヨーエ・マイ・カンパニーからエーリッヒ・ポマーのいるデクラ=ビオスコープ社(ポマーがデクラとビオスコープを併合していたためデクラ社から改名していた)に戻っている。 そこでラングは、ハルボウとの共同脚本の「戦う心」(192…

 ドイツ映画のオリジナル・スタイル 室内劇映画(カンマーシュピール)

ドイツでは、表現主義映画の影響からセット重視・スタジオ主義がスタイルの1つとなっていた。そして、その流れが「室内劇映画(カンマーシュピール)」を誕生させた。「室内劇」とは、もともとマックス・ラインハルトが提唱した室内で展開する自然主義、心…

 ドイツのスペクタクル劇、歴史劇の名声

「パッション」(1919)を始めとするエルンスト・ルビッチのスペクタクル映画、歴史映画は国際的な名声を確立し、ドイツに外貨と誇りをもたらした。ドイツ映画界では、同じような歴史スペクタクル映画が多く製作されていた。 「快傑ダントン」(1921)…

 その他のソ連の動向 1921年

後に「戦艦ポチョムキン」(1925)などを監督し、後世に名を残すことになるセルゲイ・エイゼンシュタインは、演出家のメイエルホルドが設立したGVIRM(映画製作者高等研究所)の受講が認められている。 レーニンは「プロパガンダとしての製作の理論…

 ソ連の映画製作 1921年

ソ連の国立映画学校からは、ソ連成立直後のソ連映画界の重要人物であるウラジミール・ガルジンが監督した、都市の労働者と農民の関係をテーマとした「鎌と槌」「餓え…餓え…餓え」(1921)などが製作されている。 ソ連邦の1つであるグルジアでは、192…