2009-08-01から1ヶ月間の記事一覧

 ダグラス・フェアバンクス アクション・スターである前にスターだった男

「奇傑ゾロ」(1920)、「バグダッドの盗賊」(1924)、「ドンQ」(1925)・・・ダグラス・フェアバンクスが主演した映画で、日本でよく知られている作品を並べてみると、胸躍る冒険活劇の名前が並ぶ。そこには、アクション・スターの原点とし…

 カットバックは襲われる女性と救助する男性だけのものではない

彼女とのデートに遅れそうなとき、彼女が本当に何をしているのかを知ることは難しい。すでに待ち合わせ場所にいるかもしれないし、彼女も遅れそうで急いでいるかもしれないし、約束を忘れて他の男と遊んでいるかもしれない。そのとき何をしているのかを後で…

 日本 政府の映画政策と輸入映画、記録映画

文部省は、教育上有効な映画を保護奨励する政策を打ち出していたが、1920年から本格的に対応を始めている。推薦映画を選出し、リストを各教育関係に推薦した。さらに、文部省推薦映画協会に委嘱して、学校に巡回映写を行ったりしたという。 一方で、東京…

 日本 キネマ旬報の成長

1919年に創刊されたキネマ旬報は、1920年1月の号にはユニヴァーサルから広告を出してもらえるようにまでなった。4月から13頁となり20銭に値上げを行ったのを機に、編集部を赤坂の弁士室階上の小部屋に移している。旬報の関係者が、弁士の徳川…

 日本 大手映画会社以外の作品

浅草帝国座の津田秀水が、国活の小林喜三郎の応援を得て映画協会を設立し、「熱球」「山頂の碑」(1920)といった作品を製作している。 1919年(大正8年)に、「生の輝き」(1919)「深山の乙女」(1919)で純映画劇を実践して見せた帰山教…

 日本 帝キネの設立

1920年に天活は国活に吸収されているが、天活にいた山川吉太郎は国活に合流しなかった。その山川が設立した映画会社が、帝国キネマ演芸株式会社(帝キネ)である。 帝キネは、大阪にスタジオを持ち、上方歌舞伎の嵐璃徳を専属役者とし、嵐の座付き作者の…

 日本 国活の映画製作

国活は、1919年に小林喜三郎によって設立された映画製作会社である。その国活は、1919年に日暮里撮影所が全焼し、巣鴨で天幕張りの仮説ステージを作って映画撮影を行っていた天活を吸収合併している。角筈十二社に撮影所を建設し、松竹から井上正夫…

 日本 日活での牧野省三と市川姉蔵の活躍

この時期の日活の京都では第一部と第二部に分かれ、牧野省三が第二部を担当していた。第一部は松之助映画、第二部は新しく入ってきた市川姉蔵映画を主に製作した。市川姉蔵は、芸はあるが特徴がないため、省三は一作ごとに目先を変えて意欲的に監督を行った…

 日本 日活における映画革新運動

日活で映画革新運動を行い、1919年には「己が罪」を監督した田中栄三は、「白鳥の歌」(1920)を監督している。カット・バックのシーンがあったが、人気弁士の土屋松涛が片方のシーンをカットして自分で勝手に愁嘆場のセリフを用意して語ったと言わ…

 日本 大正活映 「アマチュア倶楽部」「葛飾砂子」

トーマス栗原が監督し、谷崎潤一郎が脚本を担当した作品が、「アマチュア倶楽部」(1920)である。 「アマチュア倶楽部」はアメリカニズムに溢れた作品であり、技術的にもクロス・カッティングやインサート・ショットを巧みに用いたという。出演者は素人ば…

 日本 大正活映 トーマス栗原と谷崎潤一郎

1920年4月、大正活動写真株式会社(大正活映)が、東洋汽船財閥の出資で横浜に設立された。東洋汽船財閥の浅野良三は、横浜に個人スタジオを持っていたロシア人プロドスキイに投資していた。大正活映はスタジオを引き継いで設立されている。 大正活映の…

 日本 松竹キネマの興行部門

松竹を設立した大谷竹次郎の理想は、「今までの映画よりも少しでもいいから良いものを作りたい」というものだった。見通しが立つまで自分たちの責任でやっていくために、株式組織に反対したと言われ、熱心な若い人たちの考えを自分の考えよりも優先させたと…

 日本 牛原虚彦の松竹入社

この後映画監督として活躍していく人物である牛原虚彦が、1920年に松竹に入社している。そんな牛原は当時の映画界では珍しい東大出身者だった。 牛原が松竹入社するとき、東大出が映画界のような下賎な世界に入ってよいかということが問題となり、郷里熊…

 日本 松竹キネマ研究所の設立と、松竹キネマの特徴

何とかスタートを切った松竹キネマだが、小山内薫が校長に就任した俳優学校は6ヶ月で廃止されている。あくまでも芸術的な映画の製作という理想を追求する小山内薫と島津保次郎らの弟子たちを、会社側が見限ったのである。小山内らは松竹キネマ研究所と称し…

 日本 松竹キネマの第一作「島の女」と川田芳子

新しく設立された松竹杵まで、やっと公開された第一作は、「島の女」である。恋人との仲を裂かれた漁師の娘が、海を泳いで恋人に会いに行こうとする物語だった。11月に山田耕作指揮による40人の交響楽団の演奏付きで、歌舞伎座で披露された。披露公演の…

 日本 松竹キネマの俳優学校設立

松竹は、撮影所より前に俳優学校をつくり、新劇界で不遇をかこっていた小山内薫を校長として招いている。この俳優学校には、村田実、伊藤大輔、島津保次郎、牛原虚彦、鈴木伝明、成瀬巳喜男らが在籍した。 村田実は、帰山教正の映画芸術協会に参加していたが…

 日本 松竹キネマの設立

1920年(大正9)、歌舞伎の興行会社であり、それまでも連鎖劇や映画の興行も行っていた松竹が、映画の製作・配給興行に乗り出し、松竹キネマ合名社が設立されている。 松竹は、映画館が高収益を上げていることや、アメリカ視察に行った兄弟の末弟である…

 成り上がり者たちの王国 ハリウッド

1920年頃、ハリウッドには多くの映画製作会社があり、多くの映画人が活躍していた。現在のハリウッドの基礎は築かれていた。 ハリウッドに映画人が集まったのには様々な理由がある。地中海性気候のため晴れの日が多く、撮影のために日光を必要としていた…

 あなたの中のイーストウッドは枯れているか?

私が知ったときのクリント・イーストウッドは、すでに枯れていた。そのイメージは消えない。イーストウッドの若かりし頃の作品を見ても、どうしても枯れたイメージがちらつく。私が知ったときのカトリーヌ・ドヌーヴは、きれいなおばさんだった。「シェルブー…

 かつて、日本映画に女優は存在しなかった

帰山教正によって作られた「生の輝き」「深山の乙女」(1919)は、日本映画の革新を目指して造られた作品と言われている。弁士のいらない映画、せめて一人の弁士が解説するスポークン・タイトル入りの映画を目指したという点も革新の1つなのだが、ここ…

 中国、スペイン 1920年

中国では、中国の出版社であり、映画製作会社でもあった商務印書館がスタジオを建設し、自らも映画製作を行っていた。一方で、商務印書館は、貸しスタジオ会社としても中国映画に貢献した。 中国初の長篇劇映画である、レン・パンニェン監督の「閻瑞生(エン…

 アイルランド映画 1920年

アイルランドでは、1916年に設立されたアイルランド映画社が、「KNOCKNAGOW」(1918)といった作品を製作していた。 当時のアイルランドはイギリスからの独立のための戦争に揺れていた。この年に、ニューヨークで映画を撮っていたジョン・マクドナー…

 イギリス映画 1920年

イギリスの映画製作は低迷したままで、1920年にイギリスで公開された映画のうち、イギリス映画は17%弱にすぎなかったという。 古参の映画製作者セシル・ヘップワースは奮闘し、「アルフのボタン」(1920)を成功させている。アラジンのランプのか…

 イタリア映画 1920年

イタリアの映画製作会社は、1919年にUCIとフェルトという2大製作会社に集約されていたが、不振を脱することはできなかった。だが、製作本数は220本と、かなりの本数を誇っており、特にフェルト社の製作は活況だったが、UCIの失敗がイタリア映…

 デンマーク映画 1920年

第一次大戦後の終結によって、各国で映画製作が再開され、デンマーク映画はかつての栄光を失っていた。人材は国外へ流出し、1920年代のノルディスク社の製作本数は10本以下にまで低下した。1920年に創立されたパラディウム社がデンマーク映画界を…

 ソ連 経済の混乱下での映画製作

映画製作が政府の管理下に置かれるようになったソ連では、レフ・クレショフが1920年のポーランドとの戦いを撮影している(「赤色戦線にて」)。またクレショフはこの年、ウラジミル・ガルジンにより、国立映画学校の教授として招聘されている。国立映画…

 スウェーデン 評価は高いが、経済的には衰退

当時のスウェーデン映画は、いくつかの作品が海外で傑作と評価されたが、観客は呼べなかったと言われている。第一次大戦後、スウェーデンは中立国だったために利益を得たが、アメリカ映画の人気がスウェーデン映画を衰退させていった。1916年からスヴェ…

 その他のスウェーデン映画 1920年

ヴィクトル・シェーストレームは、優れた大自然を背景とした、小さな港と猟師たちの物語である「主人」(1920)を監督している。 モーリッツ・スティルレルは軽いブルジョワ喜劇「エロティコン」を監督している。ストックホルムのオペラを借りて、エキス…

 スウェーデン カール・ドライヤーの「牧師の未亡人」

デンマーク映画界の衰退のために外国で映画を製作せざるを得なかったカール・ドライヤーは、喜劇的な「牧師の未亡人」(1920)をスウェーデン映画として監督している。 若い僧侶が職を求めて放浪中に、ある町で牧師の職があるのを知る。だが職を得るため…

 その他のドイツ映画界の状況 1920年

ウーファを中心に発展していたドイツ映画界は、1920年には中央ヨーロッパ、イギリス、アジア、アメリカと緊密な連携を図っていた。ドイツ、オーストリア、ポーランド、トルコ、ブルガリアでのパラマウントの配給権を入手していたのもウーファだった。 一…