2012-07-01から1ヶ月間の記事一覧

日活の映画製作 1923年

根岸耕一が所長に就任した日活向島撮影所では、松竹蒲田のシステムを真似て、監督によるユニット制度を採用した。田中栄三組、鈴木謙作組、若山治組、溝口健二組、細山喜代松組、大洞元吾組といったユニットが作られたという。また、脚本部も充実させた。 そ…

日活 鈴木謙作の表現主義的作品

当時の日活向島撮影所で活躍した監督の1人に鈴木謙作の名前が挙げられる。鈴木は、早撮りが普通だった時代に、撮影に時間をかけたことで知られている。その粘りはリアリズムに向けられたが、リアリズムが誇張されて表現主義的とも言われた。1923年には…

日活 現代劇部のトップ、村田実の活躍

日活向島撮影所の現代劇のスタッフは関東大震災の被害で、京都大将軍撮影所へと移った。大将軍では、従来から時代劇を作っていた人々が「第一部」、東京から来た現代劇部は「第二部」となった。この「第二部」のトップとして活躍したのが、大震災の少し前に…

日活 溝口健二、1年目の監督作品

「敗残の唄は悲し」(1923)は、房州の漁村を背景にした作品である。漁村の娘お葉は、村に遊びに来た大学生と恋に落ちる。やがて、大学生の子供を出産したお葉だったが・・・という内容の作品だ。青島順一郎のカメラに負うところが大きいが、場面構成な…

 日活 溝口健二の監督デビュー

この年、後世に名を残す映画監督がデビューをしている。溝口健二である。溝口は1920年に日活向島撮影所に入社し、田中栄三の助監督を努めていた。1922年にそれまでの俳優陣の中心だった女形が大量に離脱し混乱していた中、24歳の若さで監督に昇進…

 日活 女形と訣別し女優を採用

日活は現代劇不振の理由である女形と訣別し、女優の採用を始めていた。1922年の暮れに公開された「京屋襟店」は、女形の役者が出演した日活の作品であるが、この作品を最後に日活の女形俳優は日活を辞めている。 日活は舞台協会から女優を出演させ、岡田…

 関東大震災の日本映画への影響

1923年9月1日、関東大震災が起こる。関東大震災は東京の文化の変化に大きな影響与えた。震災を境にして、伝統的な文化が後退して、漫画、野球、女性の職業、ラジオ放送、大衆小説といった新しい文化が前面に出てくることになる。 関東大震災は映画にも…

 映像技術の発展 1923年

映像技術の面においては、パンクロマティック・フィルムと酢酸セルロースをベースにしたフィルムが開発されている。この新フィルムをもとに、フランスで9.5ミリ(パテ社がパテ・ベビーとして販売。そのために「パテ・ベビー」社も設立)、アメリカでは1…

 レオン・ムーシナックのリズム論

映画批評家・理論家のレオン・ムーシナックは、論考「映画のリズム」(1923)のなかで、リズムをショット内のリズム(内的リズム)とショット連鎖によって生起するリズム(外的リズム)にわけ、外的リズムの重要性を説く「リズム論」を発表した。外的リ…

 朝鮮 初の長編劇映画「春香伝」

日本の統治下にあった朝鮮では、舞台と映画の組み合わせでストーリーを語る連鎖劇が、1919年以降多く作られていたが、「国境」(1923)以後から映画自体でストーリーを語る作品が作られていく。 「月下の誓い」(1923)は3巻の中編で、朝鮮総督…