2014-09-01から1ヶ月間の記事一覧

その他の日本映画 1924年

純映画劇運動を推進するため映画芸術協会を結成していた帰山教正は、「愛の曲」(1924)を製作したが、興行的に振るわなかった。この頃になると、新しい人々が帰山の動きと連動しながら新しい流れを作っていたが、帰山自身は不遇の晩年を送ったと言われ…

輸入映画−1923年 アメリカ映画会社の日本進出

1923年の関東大震災当時、アメリカの映画会社の中では、ユニヴァーサル、パラマウント、UAの日本支社があったが、震災によって3社とも関西へ本社を移転させている。 1924年6月、フォックスも進出。フォックスは帝キネと、UAはマキノと提携し和…

キネマ旬報ベストテンのスタート

この年から、映画雑誌「キネマ旬報」が、優秀映画ベストテンの選考をスタートさせている。読者から「芸術的優秀映画」「娯楽的優秀映画」の2部門それぞれで、最も優れた作品を1本のみ読者に投票してもらうという形式だった。また、第1回と第2回は外国映…

皇太子ご成婚ニュース映画

この頃になると、新聞社がニュース映画を撮影するようになっていた。1924年の皇太子御成婚ニュースでは、朝日が撮影したフィルムを飛行機で大阪に飛ばして、即夜公開した。毎日も飛ばしたが、途中で不時着したために即夜公開できなかったとう。これは、…

森岩雄 脚本家として

後に東宝の副社長の森岩雄は、外国映画の輸入などを行っていた。その森岩雄は「良い映画を讃える会」を設立し、第一回鑑賞会を開催。「巴里の女性」(1923)を上映した。 森は映画批評も執筆していたが、一方でシナリオも執筆した。 原作を提供した「恋…

帝キネの引き抜き工作

帝国キネマは大阪唯一の映画会社で、大震災の影響をほとんど受けなかった。東京に現代劇部を持っていたが、大震災後に解散した。さらに、伊藤大輔を大阪に迎えて、従業員も増やした。製作体制を増強した帝キネからは、「嘆きの曲」「落城の唄」といった作品…

山本嘉次郎と牧野省三の出会い

日活に所属しながらも無断で帝国キネマの「山語らず」(1924)の撮影に参加したりと、フラフラしていた山本嘉次郎は、キネマ旬報の田中三郎社長の口利きで東亜キネマ入社している。当時22歳だった山本だったが、神戸港を背景にした活劇「断雲」(19…

マキノ映画製作所と東亜キネマの合併

時代劇に新しい波を起こしていたマキノ映画製作所だったが、経営的には借金で首が回らない状態だった。以前に帝国キネマとの対等合併の話も出たが、牧野省三以外が反対だったために実現しなかった。時代劇部を持たない松竹と提携の話が出たが、関東大震災で…

マキノ映画 時代劇の新しい波

牧野映画製作所は、寿々喜多呂九平という脚本家を得て、時代劇に新しい波を起こしていた。アメリカの活劇映画に似たスピーディなスタイルが観客に受けた。金森万象、沼田紅緑、二川文太郎、井上金太郎といった監督や寿々喜多呂九平が「マキノを囲る同人社」…

松竹時代劇の革新

関東大震災により、東京蒲田撮影所から京都下加茂撮影所にやってきていたスタッフのうち、現代劇部は蒲田へ戻ったが、時代劇部は下加茂に残った。下加茂のバラックのスタジオの設備を整え、白井信太郎の管理の下で映画製作を行った。 沢村四郎五郎主演の情緒…

蒲田調とは何か?

蒲田調とは何か?佐藤忠男は「講座日本映画」の中で、次のように書いている。「それまでの新派悲劇調の現代劇映画に、日常的なリアリズムと、明るいヒューマニティと、近代性とをもたらした」。 彼らがお手本にしたのは、1910年代にユニヴァーサル傘下の…

城戸四郎の松竹蒲田撮影所長就任と、蒲田調の成立

野村に代わって所長となったのが、城戸四郎である。城戸は、1922年に松竹入社した人物である。松竹社長の大谷竹次郎と家同士が知り合いで婿となり、営業部、経理部を経験した後、製作担当重役となっていた。1924年に蒲田撮影所長となった時は30歳…

松竹 野村芳亭蒲田撮影所長の活躍とスキャンダル

当時の蒲田撮影所長は、野村芳亭だった。野村芳亭の指導下で、女性本位の題材と悲劇的要素を加味した家庭劇を中心に、スター第一主義の宣伝で効果を上げた。それまで日活時代劇(松之助映画)がもっとも人気があったが、それを凌駕するほどの勢いだったとい…

その他の日活映画 1924年

日活の時代劇の分野では、尾上松之助のような英雄豪傑を描く作品が多く作られていたが、時代遅れとなっていた。そんな中、池田富保が、松之助出演の「渡し守と武士」(1924)で監督デビューを果たしている。池田はリアリスティックな剣劇を目指そうとし…

日活 溝口健二の活躍

1923年に監督デビューを果たした溝口健二の活躍が続いていた。 「哀しき白痴」(1924)は、溝口が原作の作品で、金をつぎ込んだ女に情夫がいることを知った白痴が、女と情夫を死に追いやるという内容だった。新派劇の常套的なお膳立てだが古臭くなく…

日活 続く村田実の活躍

日活現代劇部長で、監督の個性に主体性を置いた村田実は、自らも監督として活躍しており、吉田絃二郎原作の「清作の妻」(1924)を監督・脚色している。妾をしていた女性が模範的な男性と結婚するも、村の人々から白眼視される。夫は日露戦争に出征して…

関東大震災後の映画業界

1923年9月1日に起こった関東大震災は、映画製作の中心を東京から京都・大阪地区へと移動させた。日本映画は京阪を中心にして、革新期から成長期へと移行していく。映画本数も増え、1923年に警視庁が検閲をしたフィルムの長さが414万8千フィー…

デンマーク映画、朝鮮映画 1924年

デンマーク映画界の不振から、カール・ドライエルやベンヤミン・クリステンセンといった人物はドイツで活動していた。そんな中、A・W・サンベアによるチャールズ・ディケンズ原作の映画化「小さなドリット」(1924)が作られている。 1923年に初の…

スペイン映画 1924年

スペインのバスク地方では、アウレリアーノ・ゴンサレス監督の「孤児ロリータ」(1924)が製作されている。 スペインの国技である闘牛を扱った作品としては、ホセ・ブックス監督の「闘牛士の勲章」(1924)が製作されている。 この頃には男優スター…

衰退が続くイタリア映画 月1〜2本の映画製作

イタリア映画の衰退は続いていた。1923年の製作本数は20〜30本程度だったと言われるが、1924年はさらに落ち込んで15〜20本程度と言われている。 経営危機に陥っていた映画製作会社のフェルトは、ローマのスタジオを貸しスタジオにし、トリノ…

スウェーデン ガルボとスティルレル 「イエスタ・ベルリングの伝説」

スウェーデンではモーリッツ・スティルレル監督の「イエスタ・ベルリングの伝説」(1924)が作られている。 スウェーデンの作家セルマ・ラーゲルレーフの処女作で、国民的文学になっていた叙事詩的小説が原作。主人公の恋と没落を描いている。ラーゲルレ…

その他のソ連映画 1924年

革命を避けてパリへ亡命していたヤーコフ・プロタザーノフは、メジラブポムの招きで帰国し、SF映画「アエリータ」(1924)を監督している。トルストイの原作を自由に翻案したもので、巨額の資金で製作された。1919年から1920年のモスクワの日…

ソ連映画 「キノ・プラウダ」「キノ・グラース」 ジガ・ヴェルトフの映画製作

ニュース映画の「キノ・プラウダ」シリーズを監督しており、ニュース映画にこそ価値があると考えたジガ・ヴェルトフは、1924年1月のレーニン死去の後、レーニンの柩の前の人々の表情などを効果的に撮影した「キノ・プラウダ」を製作している。またヴェ…

ソ連 実験的な作品群 「ボリシェヴィキ国におけるウェスト氏の異常な冒険」「十月っ子の冒険」

多くの映像についての実験を行ったことで有名なレフ・クレショフが、「ボリシェヴィキ国におけるウェスト氏の異常な冒険」(1924)を監督している。クレショフに師事していたフセヴォロド・プドフキン、セルゲイ・コマーロフ、アレクサンドラ・ホフーロワ…

ソ連 「メジラブポム=ルーシ社」誕生

1924年1月、ソ連の建国者であるレーニンが死去している。レーニンは、ネップという経済政策を取っていた。ネップは荒廃した経済の復興のために、一部に市場経済を導入したものだった。 映画会社「メジラブポム=ルーシ社」が誕生している。ドイツの労働…

イギリス映画 1924年

イギリスを代表するプロデューサーとなるマイケル・バルコンは、1922年に興した製作プロダクションを、1924年にゲインズボロー・ピクチャーズへと発展させ、イスリントン撮影所を買収している。ゲインズボローは第一作として、グレアム・カッツ監督、…