日本

輸キネマ旬報ベスト・テン 1927年度

1927年度の、キネマ旬報ベスト・ワン選出作品は以下の通り。 ちなみに、当時は読者の投票により選出される形式だった。日本映画 1位 「忠次旅日記・信州血笑篇」(1927 日活 監督 伊藤大輔) 2位 「彼をめぐる五人の女」(1927 日活 監督 阿部…

輸入映画−1927年

この年公開された外国映画としては、下記のような作品がある。 「ウインダミア夫人の扇」「帝国ホテル」「ボー・ジェスト」「人罠」「復活」「霧の裏街」「栄光」「肉体の道」「椿姫」「ビッグ・パレード」「ヴォルガの船唄」「チャング」「第七天国(キネ旬1…

その他の日本映画界の状況 1927年

文部省の教育映画製作の分野では、1927年9月に、文部省が映画部を設けて省内で教育映画を製作するようになった。「剣岳」(1927)などが作られている。 ニュース映画の分野では、1927年2月の大正天皇の大葬が、大掛かりな撮影隊が組織されて撮…

トーキーへの道 皆川芳造の昭和キネマ

1927年は、アメリカでトーキー第1作「ジャズ・シンガー」(1927)が作られた年でもある。この年日本では、それに呼応するように、海外視察を行った皆川芳造が昭和キネマ株式会社を設立して、フォノフィルムによる日本トーキー製作に着手している。 …

佐々元十の労働者のための映画製作

興行映画の流れとは異なるドキュメンタリーの流れにおいて、大きな流れが芽生えていた。その発端は、1927年に左翼映画批評家の佐々元十が、金持ちのおもちゃだったパテ・ベビーと呼ばれる9ミリ半の家庭用カメラで撮影した、「1927年東京メーデー」…

河合プロダクションの設立

この年、新しい映画製作プロダクションが設立されている。河合徳三郎によって設立された河合プロダクションがそれである。 河合徳三郎は、多くの映画館を買収していくうちに、徐々に製作・配給にも興味を抱くようになっていた。そんな折、国際活映(国活)の…

市川右太衛門プロダクション、東亜キネマ、連合映画芸術家協会

1927年にマキノから独立した市川右太衛門は、奈良のあやめ池遊園地内にスタジオを建設して映画を製作した。「浄魂」(1927)は、マキノ時代と変わらぬ剣劇レビュー的作品だったが、助演者のレベルが低かったという。 経営不振に陥っていた東亜キネマ…

その他のマキノ映画と山上伊太郎

マキノでは、嵐長三郎や片岡千恵蔵映画以外にも、多くの作品が作られた。 以前からのスターだった月形龍之介が出演した「いろは仮名四谷怪談」(1927)は、井上金太郎が監督を担当し、伊右衛門を月形龍之介、お岩を鈴木すみ子が演じた。バンプ女優として…

マキノ・プロダクション 市川右太衛門の退社と嵐長三郎と片岡千恵蔵のデビュー

マキノ・プロダクションでは、1925年にデビューしてからスターとして大活躍を見せていた市川右太衛門がマキノを退社し、独立プロである市川右太衛門プロを設立している。市川は最後にお礼奉公として「影法師」に無給で出演したという。さらには、牧野省…

短命に終わった阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画

1926年に、アメリカのユニヴァーサル映画と阪東妻三郎プロの提携によって設立された阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画は、第一回配給作品として「切支丹お蝶」「笑殺」「青蛾」(1927)を配給した。しかし、いずれも阪東は出演しなかったため、系…

松竹 その他の動き 1927年

後の大監督小津安二郎が、1927年に24歳で監督に昇進している。デビュー作は時代劇「懺悔の刃」(1927)だった。小津が時代劇を手がけたのは、「懺悔の刃」だけである。前科者で更生しようとしている男と、泥棒をやめない弟と、男のかつての仲間な…

松竹 林長二郎の映画デビュー

松竹では1人のスターが誕生している。後に長谷川一夫と改名する林長二郎である。 松竹は青年歌舞伎役者の林長丸を林長二郎と改名し、松竹配給映画の製作を請け負っていた衣笠映画聯盟に預けて映画デビューさせた。 林のデビュー作「稚児の剣法」(1927…

松竹 喜劇専門監督 斎藤寅次郎の活躍

蒲田撮影所長の城戸四郎は、現代劇と時代劇の二本立てに短編喜劇を加えて、二本半の番組を組んだ。ここで上映される短編喜劇は新人の腕試しにも使われたという。前年監督デビューした斎藤寅次郎は、短編喜劇から出発して、スラップスティック喜劇専門家とな…

松竹 五所平之助のリリシズム

当時の蒲田撮影所では、伊豆と潮来をロケに多く使った。特に潮来はロマンチックな効果をあげたという。五所平之助は、叙情的な田園映画で傑作を生み出した。「寂しき乱暴者」「からくり娘」(1927)を、その系列にあげることができる。また、五所は都会…

松竹 五所平之助の大奮闘と伏見晁

松竹蒲田撮影所では、五所平之助が大奮闘を見せていた。「寂しき乱暴物」「恥しい夢」「からくり娘」「処女の死」「おかめ」(1927)を監督している。 「恥しい夢」は、うぶな芸者が偽学生にほれるが、偽者だと知って旦那の下に戻るという内容の作品であ…

日活 新しい流れ 内田吐夢と田坂具隆

日活現代劇の分野では、新しい流れが芽生えつつあった。その代表が内田吐夢と田坂具隆の2人である。 内田吐夢は、大正活映横浜スタジオに栗原トーマスの門下生として入り、俳優や雑役をこなした。そして、マキノなどの小プロダクションで俳優として出演後、…

日活 「椿姫」と岡田嘉子の駆け落ち

日活では、森岩雄がデュマ・フィスの原作を翻案して、村田実が監督した「椿姫」(1927)が作られている。森は小説をそのまま映画にすることを好まなかったため、原作とはまったく異なる内容となった。 「椿姫」は岡田嘉子主演で撮影が開始されたが、撮影…

日活 阿部豊=岡田時彦の現代劇での活躍

日活の現代劇の分野では、阿部豊=岡田時彦のコンビが活躍した。 「彼をめぐる五人の女」(1927)は田中栄三が脚本を担当した作品で、若いドン・ファン風の医者を巡る5人の女性の物語だった。ユーモアをたたえた風刺劇で、ショットの構成する映画のリズ…

1927年当時の日活京都大将軍撮影所

日活京都大将軍スタジオで製作された映画は、伊藤大輔の作品だけではなかった。関東大震災によって映画製作の基盤が関西に移り、もともと京都が専門にしていた時代劇が興隆していた。中里介山、白井喬二らの大衆文芸の流行や、剣戟劇団の人気も刺激になった…

日活 伊藤大輔「下郎」傾向映画の先駆け

伊藤大輔は、「忠次旅日記」(1927)のほかに、「下郎」(1927)という作品も監督している。主人の仇討ちにお供した下郎が、敵を偶然倒してしまうことで、敵に追われるようになり、主人にも裏切られて無残に殺されるという内容の作品で、封建社会の…

日活 大河内伝次郎の魅力

大河内傳次郎は、走る演技、転ぶ演技、立ち回りに、勢いや弾みや重量感があった。その演技を佐藤忠男は「講座日本映画2 映像表現の確立」の中で次のように書いている。「昭和初期の不況時代における大河内傳次郎のすごい人気は、こういう、のたうちまわる怪…

日活 伝説的作品「忠次旅日記」 伊藤大輔と大河内伝次郎

1926年から、監督=伊藤大輔&出演=大河内伝次郎コンビの作品が作られていたが、この年は伝説的な作品「忠次旅日記」3部作が作られている。3部作とは、「忠次旅日記・甲州殺陣篇」「忠次旅日記・信州血笑篇」「忠次旅日記・御用篇」である。 これまで…

映画評「馬具田城の盗賊」

※ネタバレが含まれている場合があります[製作国日本 [製作]自由映画研究所 [配給]中央映画社[演出・作画]大藤信郎 ダグラス・フェアバンクス主演「バグダッドの盗賊」(1926)を下敷きにしたアニメーション映画。切り絵や影絵を使ったアニメーションの、…

映画評「西遊記孫悟空物語」

※ネタバレが含まれている場合があります[製作国日本 [製作]自由映画研究所 [配給]中央映画社[演出・作画]大藤信郎 有名な西遊記の切り絵アニメとして映画化した作品。切り絵や影絵を使ったアニメーションの日本における先駆者である大藤信郎らしさは、孫悟空…

その他の日本映画 1926年

大正活映で小説家の谷崎潤一郎と共に「アマチュア倶楽部」(1920)などの野心的な映画製作を行ったトーマス栗原が、1926年に死去している。谷崎潤一郎は、大正活映がトーマス栗原による野心的な芸術映画をやめた段階で、すでに映画との関係を絶って…

キネマ旬報ベスト・テン 1926年度

1926年度の、キネマ旬報ベスト・ワン選出作品は以下の通り。 1926年から前回まであった「芸術的」「娯楽的」の区分が廃止された。また、外国映画のみだった対象に日本映画も加わるようになった。 ちなみに、当時は読者の投票により選出される形式だっ…

輸入映画−1926年

この年公開された映画としては、下記のような作品がある。 フランス 「鉄路の白薔薇」「翡翠の箱」「エルドラドオ」「生けるパスカル」「噫無情」「雪崩」 アメリカ 「アイアン・ホース」「殴られる彼奴」「海の野獣」「弥次喜多従軍記」「ダグラスの海賊」…

文部省の映画製作とニュース映画とアニメ 1926年

文部省は東京シネマ商会を使って、多くの教育映画を製作していた。「壷」「我国の古武道」(1926)が製作されている。 軌道に乗るところは多くなかったニュース映画の分野では、国民新聞社による「国民ニュース」が1926年4月よりスタートし、193…

新しい文化として日本人に受け入れられた映画

1920年代は映画が新しい文化として日本人に受け入れられるようになった時代でもある。1922年の当時の東京市及び隣接郡部には、112の映画館があり、年に1740万人の入場者があった。これは、人口一人あたりの平均入場回数5.07回だった。寄…

ドキュメンタリー映画 1926年

ドキュメンタリーの分野では、白井茂が震災から復興する東京の様子を撮影した「航空船にて復興の帝都へ」(1926)などが作られている。 1924年から1926年の大正時代末期には、教育映画業者82社によって製作・発売されたドキュメンタリー映画が…