イタリア映画(1914年)

 この頃のイタリア映画は世界の先端を走っており、セットを収納する倉庫、小道具・大道具製作所、広大な屋外敷地、編集室、現像所を完備したアンブロージオ社とイタラ社のスタジオは、ハリウッドやドイツの手本となっていたという。

 1914年8月には、第一次大戦が勃発している。イタリア映画界は海外マーケット縮小を予想し、スタジオ閉鎖・解雇・出演料の値下げなどを行った。だが、イタリアは中立を宣言し、逆に需要が増大。フランス、ドイツ、ロシアといった交戦国への輸出も増え、資本流入の増加により活況を呈した。当初の予想に反し、1914年はイタリア映画の頂点とも言える年となり、各社とも昼夜兼行の製作体制を取った。先頭には史劇とスターたちがいた。

 配給・興行の分野では、1913年から映画館経営を開始したステファノ・ピッタルーガが、1914年には生フィルムの市場管理を目ざした企業連合ステファノ・ピッタルーガ社(SASP)設立している。ピッタルーガは配給・興行の分野で大きな力を得ていくことになる。

 アンブロージオ社設立時から撮影者として活躍したジョヴァンニ・ヴィトロッティは、レオナルド・フィルム設立しているが、1915年に破産することとなる。



(映画本紹介)

「世界の映画作家32 イタリア映画史/イギリス映画史」(キネマ旬報社

 イタリアとイギリスの草創期から1970年代までの歴史の把握には最適の1冊。
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