イタリア映画最高の成功作「カビリア」

 そんなイタリアでは1912年に製作され、世界的にヒットした「クォ・ヴァヂス」の成功の再現を狙い、「スパルタコ」(1914)といった作品が作られている。

 イタラ社製作の「カビリア」(1914)は、そんな「クォ・ヴァヂス」の成功の再現を狙った作品の中でも、最も成功した作品といわれている。同時にイタリア映画最高の成功作とも言われている。

 「カビリア」の製作と監督は、ジョヴァンニ・パストローネが担当した。パストローネは著名だった作家ガブリエレ・ダンヌンツィオと会い、実際はパストローネが書いた脚本を、宣伝のためにダンヌンツィオの作品とする契約を結んだ。当時監督は重要なものと考えられていなかったのだった。ダンヌンツィオが行ったのは、タイトルの「火の物語」を、火から生まれた娘を意味する「カビリア」としたこと、字幕をダヌンツィオ風の荘重華麗な文体としたこと、役名をカルターロ、マチステなど響きのよいものにしたことくらいだったという。だが、ダンヌンツィオは以後、自らが「カビリア」の作者であると自称した。

 ダンヌンツィオは、イタリア人の住む外国領の回復を求める運動であるイルレデンティスモの主張者で、愛国者だった。当時のイタリアは統一後半世紀に満たず、基盤がもろく、ナショナリズムが国家を固めるセメントの役割を果たしていた。1911年には、地中海が古代ローマ帝国の内海であったこともあり、トルコ戦争でリビアを獲得していた。「カビリア」はローマ対カルタゴ戦争を背景にしており、当時のイタリアの気運とも合っていた。

 ストーリーは多種多様で、物語はカルタゴヌミディアシチリア、イタリアで同時に進行した。6ヶ月におよんだ撮影も同時に4人の撮影者によって行われた。2万メートルのフィルムを撮影し、4,500メートルのみ使用した。多くのフィルムを撮影し、そこ抽出して編集する方法は、以後、アメリカで採用されていくこととなる。全体で上映時間は4時間近くとなった「カビリア」は、準備に2年、撮影開始からプリント完成まで1年、製作費は125万リラという、まさに超大作だった。(当時の平均が5万リラ、準備が長くて2ヶ月、撮影が数週間)。

 トリノでのプレミアでは、王立劇場の80人のオーケストラと70人のコーラスが動員され、ローマの公開日には、有名な飛行士にローマ上空を飛ばせ、チラシをばらまくという派手な宣伝を行った。飛行士はイタリア人が住むオーストリアトリエステに空路侵入して国民的英雄となった人物で、さらに話題を呼んだ。当時、イタリア人の住む外国領の回復を求める運動(イルレデンティスモ)が根強くあり、イタリア人のナショナリズムをくすぐる宣伝は功を奏した。また、飛行機を使って宣伝が行われた初の試みとも言われている。アメリカでも興行的に成功を収めた(フランスでの公開は第一次大戦のために遅れた)。

 演技が誇張されていると批判されたが、他の国の同時期の作品よりは控えめだった。黒人奴隷役にはジェノヴァの港湾労働者だったバルトロメオ・パガーノを選ばれ、カメラに慣らせるためだけに、数ヶ月給料を払ったという。パガーノは公開後スターとなり、パストローネは自ら「マチステ」シリーズを数本製作している。

 セット・照明・撮影機の動きが革新的だった。それまでは背景幕に描かれていただまし絵を排除し、本物の建造物・彫像・床などを使用した。また、精巧なミニチュア撮影も行われた。1912年から準備は行われ、屋外撮影スケジュール作成のために気象データを集めたり、ルーヴルのカルタゴ展示室などの博物館や文献を参考に時代考証し、無数のスケッチやデッサンを作ったと言われている。また、アルキメデス役のエンリコ・ジェメッリは、本物の髭を生やすように命じられた。イタリア映画初の、本物の髭と言われている。

 移動撮影も随所で行った。移動撮影機「カレッロ」の特許をパストローネは1912年に取得しており、いくつかの作品で実験的に使用していた。「カレッロ」は焦点を合わせるのが容易で、舞台装置の立体的効果を発揮するのに役立った。移動撮影によるクロース・アップも行われ、スタジオにクレーンを取り付けて初めて俯瞰撮影を行った作品とも言われている。

 移動撮影の効果については、吉村信次郎が次のように指摘している。

「立体的な深度やセットの重量感がより強く感ぜられるようになった。またロングやアップの連続的併用により、心理的描写の可能性が一段と高められた」(「世界の映画作家32 イギリス映画 イタリア映画」)

 撮影においてパストローネは、撮影機に特製の小型モーターをつけて、撮影が一定のリズムで行われるようにしたという。これは、撮影が手回しから自動に移る最初の試みの1つと言われている。また、撮影は2台のカメラで同時に行われ、2本のネガが作られた。1本はイタリア用、もう1本は外国用だったという。

 照明は、人工照明を組織的に使用した。100アンペアのアーク灯を12台使用し、アメリカから輸入したネガ・フィルムを包んでいた銀紙を利用して作った反射スクリーンを使って光量を増大。変化に富んだ表現的な効果を出すことを意図した。撮影においては、セグンド・デ・チョモンを中心に、数名で行われた。

 ハンニバルのアルプス越えは、実際にハンニバルが越えたといい伝えられている場所の1つで行われた。

 主人公のカビリアの波乱に富んだ物語を柱に、数多くの見せ場が存在した。エトナ山の噴火、ハンニバル軍のアルプス越え、モロック神殿の生贄の儀式、シラクーサ港のローマ軍船炎上、脱走と追跡、豹のいる豪華な庭園や館などが挙げられる。

 この後、ヒット作は多く生まれるも、「カビリア」を越える成功を収めるイタリア映画は生まれなかった。



(ビデオ紹介)

カビリア [VHS]

カビリア [VHS]