「嵐の孤児」とグリフィス=ギッシュコンビの解消

 D・W・グリフィスはこの年、「夢の街」「嵐の孤児」(1921)といった作品を監督している。

 「散り行く花」(1919)を思わせる内容の「夢の街」は、映写機に取り付けた装置を使ってセリフと音楽を映像に同期させることに挑戦した作品だが、失敗に終わったと言われている。このエピソードは、グリフィスがトーキーに興味を持っていたことを示すものでもある。

 「嵐の孤児」は、「ファウスト」の映画化を進めていたグリフィスに、リリアン・ギッシュが「嵐の孤児」の原作戯曲を薦めたことから製作された作品である。グリフィスはフランス革命について調べまくり、当時のフランスの建物を正確に復元したセットを建設した。大人数のエキストラを雇い、衣装はリリアンの提案で革命時代の古着の複製を使った。セットは自身の撮影所である、ニューヨーク郊外のママロネック撮影所に建造した。グリフィスは製作に15万ドルを費やした。「東への道」(1920)のヒットで、多額の製作費を使うことが出来たために可能だったといわれる。

 撮影はグリフィスの長年の相棒であるビリー・ビッツァーに加えて、ヘンドリック・サートフが担当した。撮影が進むにつれて、サートフの影響力が大きくなっていったという。そのことに不満を持ったビッツァーは、ある日から撮影に来なくなってしまったと言われる。

 「嵐の孤児」の撮影中にリリアン・ギッシュとグリフィスの間で意見の相違があった。リリアン演じる主人公が妹と再会するシーンで、リリアンは喜ぶ気持ちを抑えたいとグリフィスに提案し、受け入れられたという。また、グリフィスはクライマックスが長すぎると考え、その理由をリリアンのクライマックスの最初の方の演技が緊迫感がありすぎたからだと考えていたという。

 「嵐の孤児」は高い評価を得たが、映画の舞台となったフランスでは史実を曲げているとして、反対運動を引き起こした。興行的にはヒットしたが、宣伝費をかけすぎたことや、外国での権利をフォックス社が持っていたことなどから、あまり儲からなかったという。「嵐の孤児」の公開後、グリフィスから十分な給料が払えないとリリアンは言われ、2人の関係は解消されることとなる。