映画評「ホワイト・ローズ」

製作国アメリカ 原題「THE WHITE ROSE」
D・W・グリフィス・プロダクションズ製作 ユナイテッド・アーティスツ配給

監督・製作・脚本D・W・グリフィス 撮影G・W・ビッツァー 美術チャールズ・M・カーク

出演メイ・マーシュ、キャロル・デンプスター、アイヴァー・ノヴェロ、ニール・ハミルトン、ルシル・ラ・ヴァーン


 孤独な身の上の地味な女性だったベッシーは、レストランで働くようになり、見た目も男性関係も派手になる。牧師のジョセフは、そんなベッシーの身の上を心配するうちに2人は愛しあうようになり、関係を持つようになる。だが、ジョセフは牧師の道を進むためにベッシーと別れて故郷に戻っていく。


 1910年代、バイオグラフ社時代の短編を始め、「國民の創生」(1915)や「イントレランス」(1916)といったグリフィスの作品に出演し、素晴らしい演技を見せたメイ・マーシュが、グリフィスの作品に再登場した作品である。この間マーシュは多くの映画に出演したが、決して成功とは言えない作品ばかりだったという。

 マーシュは素晴らしい。汚れを知らない純朴な少女から、派手になっていき、妊娠をして悩むという役どころを、説得力を持って演じてみせる。リリアン・ギッシュと別れた後のグリフィスが主演女優として迎えたデンプスターを差し置いて、主役に据えられたのがよくわかる。逆にデンプスターは脇に回ることで、主役に必要な複雑さから解放されて、のびのびとしているように見える。

 後にアルフレッド・ヒッチコックの「下宿人」(1927)に主演することになるノヴェロは、白いメイクアップがきつすぎるが(「下宿人」でもそうだった)、美男子ぶりは目を引く。だが、神に仕えるという職業と愛の狭間で苦悩する様は、マーシュと比べると説得力を持って迫ってはこなかった。ヒッチコックが、美男子だが裏がありそうな役柄としてノヴェロを活かしたことの素晴らしさがわかるというものだ。


 内容はナサニエル・ホーソーンの「緋文字」に、「東への道」(1920)をプラスしたようだ。グリフィスの世界観が凝縮された内容である。人間は清く正しく生きなければならない。だが誰にも失敗はあるので、寛容でなければならない。「イントレランス」以後のグリフィスの作品には多かれ少なかれ、そうしたメッセージが込められている。その意味で、「ホワイト・ローズ」は、まさにグリフィスの作品なのだ。

 こうしたグリフィスのメッセージは当時において時代遅れであり、それゆえに観客が離れていったと言われる。だが、映画という媒体を使って、誰に何と言われようとも自らが正しいと思う世界観を伝えようとし続けたグリフィスの映画人の生き様は決して失敗ではない。

 悲しいのは、グリフィスが素晴らしい演技者を失っていたということだ。それは、リリアン・ギッシュであり、ロバート・ハロンであり、リチャード・バーセルメスである。ギッシュはまさに「ホワイト・ローズ」と同じテーマの「真紅の文字」(1926)で素晴らしい、あまりにも素晴らしい演技を見せているし、グリフィスが作ると「時代遅れ」と言われたであろう内容の「乗合馬車」(1921)を主演して成功したのはリチャード・バーセルメスだ。これらのことを考えると、なおさら悲しさが募る。


 映画の後半、かつては厳格が優先し、道端で倒れているアルコール中毒の男を軽蔑していたジョセフが、自らも罪を抱えることにより、同じアル中の男にやさしく声をかけるシーンがある。この序盤と後半で、見た目は同じなのに、何らかの経験によって印象が変わるという演出。これは、グリフィスが短編時代から時折披露してきた構成である(「ホワイト・ローズ」は脚本もグリフィス)。こうした過去を思い起こさせる演出上の腕前もまた、「もし、マーシュだけではなくて、ギッシュやバーセルメスもいたら・・・」という思いに駆られる。

 この頃のグリフィスの作品を見ると、無い物ねだりをしてしまう。失われた過去を求めてしまう。だが、一度狂った歯車は完全に戻ることはない。マーシュが戻ってきたが、決してかつてのように歯車は噛み合わない。かつてと同じようにマーシュは相変わらず見事な演技を見せてくれているのに。時間を経過した後に同じものや場所を見せ、異なった印象を抱く。「ホワイト・ローズ」を含めたグリフィスの作品群は、グリフィスが得意とした構成を思い起こさせる。皮肉なことだ。