内務省警保局の映画検閲の特徴 1925年

 内務省による映画検閲の特徴としては、次のような5つの点が挙げられる。

 1つ目に、フィルム検閲に関係することのみで、興行に関するものは今まで通り各地方が定めるとした。

 2つ目に、検閲は原則として内務大臣が行うとした(例外として、実写報道用フィルムは各地方の検閲でもよいとする)。

 3つ目に、検閲基準は「公安・風俗・保健上問題がある場合」とし、抽象化された。検閲の乱用や業者の予測可能性から、映画産業は基準の明確化を求めたが拒否されたという。

 4つ目に、検閲の有効期間を3年とした。以前よりも延び、業者保護の意味があったという。また、1巻のフィルムに検閲済の検印を押すことになり、不正な複写ができなくなった。

 5つ目に、検閲手数料が導入(3メートルごとに5銭)された。出版の検閲では手数料はなく、映画会社は反対した。だが、内務省は検閲事務の実費弁済に当たるとして強行したという。後に、手数料の総額が多くなったため、1メートルごとに1銭に減額されている。

 出版物の取り締まりは法律によって行われたが、映画の検閲は、法律ではなくて省令で行われたという違いがある。当時、市民の権利や自由に関することは「法律」で定められるように憲法で決められていた。その意味で、省令で検閲が行われたことは、憲法の精神に反しているとも言える。また、本来ならば法律でなければ他人の財産の没収はできないはずにも関わらず、省令で検閲されてカットされたフィルムは「没収」「廃棄」された。

 検閲機関についても反発があった。検閲は専属の検閲官が行ったが、行政委員会形式や民間人参加の陪審型にすべきという声もあったが、聞き入れられなかった。また、不服申し立て制度もなく、映画会社からは制度の要求があったが、耳を貸されなかったという。

 奥平康弘は「講座日本映画」の中で、内務省による検閲について次のように書いている。

 「内務大臣の名による検閲命令はまったき意味で絶対的な効力を持った。それは裁判所への出訴もありえない、文字どおり切り棄て御免の権力であったのである」

 検閲機関は東京にしかなかったという。製作は東京以外(京都など)でも行われていたため、関西の検閲機関の設置の要望もあったが、実現しなかった。しかし、例外的に1928年11月に京都天皇即位の礼を撮影し、公開するために、臨時に京都に出張機関が出来たことがあったという。


無声映画の完成 〜講座日本映画 (2)

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