日活 伝説的作品「忠次旅日記」 伊藤大輔と大河内伝次郎

 1926年から、監督=伊藤大輔&出演=大河内伝次郎コンビの作品が作られていたが、この年は伝説的な作品「忠次旅日記」3部作が作られている。3部作とは、「忠次旅日記・甲州殺陣篇」「忠次旅日記・信州血笑篇」「忠次旅日記・御用篇」である。

 これまでの英雄・豪傑としての忠次ではなく、不遇の人生に疲れ果てた人間忠次として映像化された作品である。子分の裏切りの中で孤立・苦悩する忠次のむなしさと哀愁と、大河内のキャラクターがマッチして効果を挙げた。カメラマン唐沢弘光が撮影した山道の風物も、悲愴美を感じさせたと言われ、評価された。御用提灯を斬る忠次に「一つ」「二つ」というタイトルを重ねるなど、字幕も見事な役割を果たしているという。新藤兼人は「講座日本映画2 一スジ二ヌケ三役者」の中で「タイトルは、単なるタイトルという文字ではなく、内容に溶けこんで詩に高まっている」と書いている。

 また滝沢一は、「講座日本映画2 時代劇とは何か」の中で次のように評している。

 「忠次が農民のために蜂起する革命劇でもない。最初から幕府権力との戦いに敗れて、甲、信、越とさまよい歩く忠次であり、そのうえ中風という肉体的なハンディを背負い、役人の追捕と身内の裏切りがくり返されるなかで、なおも生へのあがきをつづける未練がましい忠次である。だが伊藤は、そういう人間の弱さ、もろさをことごとくさらけ出しながら、なお反骨をつらぬき、抵抗や突出をせずにはいられない忠次の人間像に執した」

 独立プロを興してはうまくいかなかった伊藤にとって、山に籠もった忠次に自身の姿を、子分の裏切りを疑う忠次の弱さ・動揺に、独立プロの仲間と離反を重ねていたのではないかという指摘もある。だが、伊藤は「講談をそのままやっただけ」と語っていたという。

 一方で、猪俣勝人は「日本映画名作全史」の中で、「忠次旅日記」の成功の一因を、伊藤がかつて松竹蒲田で商業映画の脚本を書いていたことにもあるとして、次のように書いている。「商業映画で身につけた表現方法は抜群であり、颯爽たる筋運び、画面の飛躍、芝居の展開に、精神溌剌たる快調さを示した」

 元々、会社が考える英雄忠治と、伊藤がやりたい無頼漢忠治の間で意見が合わず、そのために一作目の「甲州殺陣篇」は剣戟主体になっている。

 興行的にも大成功したのに加えて、批評家の絶賛も浴びた。第二部「忠次旅日記・信州血笑篇」はキネマ旬報ベスト・ワンに、「御用篇」もキネマ旬報4位に選ばれた。また、作家の大仏次郎は「映画は伊藤大輔によってはじめて市民権を得た」と言ったという。


無声映画の完成 〜講座日本映画 (2)

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