D・W・グリフィス、レーニンに誘われる

 アメリカ映画の父と言われるD・W・グリフィスは、世界平和をテーマにした映画を撮影しようとするが頓挫している。グリフィスは制作費捻出のために、ママロネックの撮影所を売却しようとまでしたが、実現しなかった。

 グリフィスは、この後ヒット作から見放され、時代から置き去りにされていく。そんなグリフィスは、「観客の精神年齢は9歳であり、成功する映画を作るためには、映画をこの精神状態に合わせなければならない」と語っていたという。グリフィスのいらだちが伝わってくる。

 そんなグリフィスはこの年、探偵映画である「恐怖の一夜」(1922)を監督しているが、失敗に終わっている。また、レーニンからソ連の映画製作を指導して欲しいと声をかけられたが、断っている。グリフィスが監督した「イントレランス」(1916)は、ソ連の映画製作者たちにとって教科書的の存在となっていた。また、レーニンは「イントレランス」の現代篇を見て、グリフィスを共産主義者と勘違いしたとも言われている。