ワーナーの躍進 一流会社の仲間入り

 1927年に公開された「ジャズ・シンガー」(1927)は大ヒットとなり、製作したワーナーはトーキー映画を続けて製作した。「テンダーロイン」(1928)は、全部で12分から15分の会話が4,5ヶ所に分かれて突然現れるというもので、批評家の反応はあまりよくなかったという。そして、「紐育の灯」(1928)で本格トーキー第1作を発表した。

 「紐育の灯」は、ギャングを主役としたメロドラマだった。トーキー映画の多くがギャングを主役としたのは、タイヤのきしむ音や機関銃のドンパチや「もぐり酒場」の楽団の音が自然に録音されたためだと言われている。

 続いてワーナーは、「シンギング・フール」(1928)を製作した。失意のジャズ歌手に扮したアル・ジョルスンが黒塗りの黒人姿を演じ、それまでの興行成績1位の「ベン・ハー」(1925)を凌ぐ興行成績500万ドルという過去最高の興行記録を打ち立て、「風と共に去りぬ」(1939)が登場するまで抜かれなかったという。これにより、トーキーの流れは決定的になった。

 こうして完全に一流会社の仲間入りをしたワーナーは、ファースト・ナショナルを買収している。ファースト・ナショナルは、パラマウントの独占に反対する立場で集まった映画館主たちの映画会社だった。

 ちなみに、ワーナーのトーキーの方式「ヴァイタフォン」は、ディスク式であった。フィルムとは別のディスクに音声を吹き込み、上映の際に同期させるというものである。この方式は、完成してしまうとカットする事ができなかった。そのために、ヘイズ・オフィスによる自主検閲の重要性が増すようになり、1930年に新しい製作綱領(プロダクション・コード)が公布されることにつながったと、ロバート・スクラーは指摘している。