2015-04-01から1ヶ月間の記事一覧

内務省警保局が映画検閲権を掌握 1925年

それまで各地方で行われていた映画検閲だったが、内務省警保局が「活動写真フィルム検閲規則」を作り、映画検閲権を掌握するようになった。これは、全国の映画を一律で規制するメカニズムであると同時に、それまでの風俗の取締りからイデオロギーや思想の取…

岡田時彦の流浪の俳優生活 1925年

この後すぐに大スターの座を獲得する岡田時彦は、マキノ映画製作所にいたが、帝国キネマの引き抜き旋風の際に、帝国キネマへ移籍していた。帝国キネマで、何本かの作品に出演した岡田を、当時東邦映画で監督として活躍していた伊藤大輔が引っ張ってきて「煙…

伊藤大輔の流浪の監督生活と山本嘉次郎 1925年

1924年に帝国キネマで監督としてデビューした伊藤大輔は、東邦映画へ移籍している。そこで伊藤は、ロシアの小説家であるツルゲーネフ作品の翻案「煙」(1925)を監督した。若い大学生が没落華族の娘と恋仲になるが、女は裕福な軍人と結婚してしまう…

「雄呂血」 阪東妻三郎の決定打 1925年

東亜キネマに戻っていた阪東妻三郎は、牧野省三が設立したマキノ・プロダクションには加わらず、立花良介の一立商店の後ろ盾で、独立プロダクションを設立して、マキノ・プロダクションと提携して配給を行うようになった。1925年には、「異人娘と武士」…

市川右太衛門のデビュー 1925年

阪東妻三郎が独立したマキノ・プロダクションは、スターがおらず、興行的にヒット作を生み出せなかったと言われる。そんな中、牧野省三は1人の役者を新たなスターとしてデビューさせている。「黒髪地獄」(1925)でデビューした市川右太衛門である。 市…

「日輪」の公開と、不敬罪問題 1925年

マキノ・プロダクションは、剣劇映画のみならず、連合映画芸術家協会と組んで、野心作を製作した。その1つが、「日輪」(1925)である。 監督を務めたのは衣笠貞之助であり、牧野省三が製作総指揮にあたった。卑弥呼についての物語であり、マキノ智子が…

独立プロの夢と四社連盟による排撃 1925年

マキノ・プロダクションと、マキノに触発されて出来た独立プロダクションの動きは、大手の映画会社をあわてさせた。そこで、日活、松竹、帝キネ、東亜の大手の映画会社は、四社連盟を結成し、独立プロが製作した映画の上映を阻止しようとした。四社連盟は、…

マキノ・プロダクションの設立と独立プロの興隆 1925年

東亜キネマを去った牧野省三は、1925年6月にマキノ・プロダクションを創立し、御室天寿ヶ丘に撮影所を建設している。脚本の寿々喜多呂九郎、監督の沼田紅緑、井上金太郎、金森万象、衣笠貞之助らが東亜からマキノへ移籍した。第1作は沼田紅緑監督「討…

「月形半平太」 連合映画芸術家協会の第一作 1925年

連合映画芸術家協会の第一作として、新国劇の当たり狂言である「月形半平太」(1925)が、牧野省三と提携し、衣笠貞之助監督で作られた。製作開始の矢先に、撮影が行われていたマキノの等持院スタジオが不審火で焼失したり、主演の沢田正二郎が昼は映画…

連合映画芸術家協会の設立 1925年

1925年に1つの協会が、文学・演劇・映画界のそうそうたる顔ぶれで設立されている。連合映画芸術家協会がそれである。文芸からは菊池寛、久米正雄、里見紝、白井喬二ら、演劇からは新国劇の創始者の沢田正二郎や歌舞伎の革命児といわれていた市川猿之助…

東亜キネマ マキノ省三と寿々喜多呂九平の映画製作 1925年

1924年に、マキノ省三のマキノ映画製作所は東亜キネマに吸収合併された。牧野は会社とかけあい、自由な映画製作を認めさせ、配給は東亜キネマが担当するという形だった。その東亜キネマでは、小説家の直木三十五たちの斡旋で、当時売り出し中だった新国…

帝国キネマ 引き抜きの果ての没落 1925年

1924年に、他社から多くの役者やスタッフを引き抜いた帝国キネマだったが、給料などの待遇差への不満から、旧来から帝国キネマにいた蘆屋撮影所全員が1月に辞表を提出した。引き抜きを画策した立石駒吉が、撮影所長の権限で全員をクビにした。そして、…

松竹、日活の競作「大地は微笑む」 1925年

この年、「大地は微笑む」(1925)という作品が、松竹と日活の競作となり、公開されている。 「大地は微笑む」は、朝日新聞が当時としては高額な千円という懸賞金で募集したコンクールに当選した小説の映画化だった。選ばれた「大地は微笑む」を書いた吉…

日活 溝口健二、女性に切られる 1925年

活躍を続けていた溝口健二は、戦争風刺劇の漫画が原作の「無銭不戦」(1925)を監督している。この作品は、金がなければ戦わないという、中国人の心理を露骨に描きすぎているという理由で、検閲により半年間お蔵入りとされた後、関西では封切られたが、…

日活 尾上松之助の1000本記念映画「荒木又右衛門」 1925年

時代劇が変わっていく中、日本映画草創期の大スターである尾上松之助の作品を変化を求められていた。前田曙山原作「落花の舞」(1925)、大仏次郎「鞍馬天狗」(1925)などの文芸作品を原作とした作品に出演するも、演技スタイルの古さは変わらなか…

日活 村田実と森岩雄の結晶「街の手品師」 1925年

日活で活躍を続けていた村田実は、映画批評を執筆しながら脚本も書いていた森岩雄原作・脚本の「街の手品師」(1925)を監督している。脚本の森は、当時最も欧米の映画に詳しい人物と言えた。 ある手品師が、中華料理屋の女給の娘に恋をするが、娘には恋…

松竹京都 時代劇の不振 1925年

1924年に、スキャンダルから蒲田撮影所から京都下加茂撮影所へやって来た野村芳亭は、「お伝地獄」(1925)などの時代劇を製作していた。それまで新派を作ってきた野村の時代劇は、女性的題材、演劇的雰囲気から抜け切れず、スリルとスピード、サス…

松竹 島津保次郎の活躍 1925年

1924年に帝国キネマによる引き抜きにあい、1925年には日活が梅村蓉子を松竹から引き抜いた。それに対して松竹は、鈴木伝明を逆に日活から引き抜いた。引き抜き合戦により、松竹蒲田撮影所長だった城戸四郎はスター・システムの弊害を痛感し、脚本家と…

関東大震災とアメリカ映画の影響 1925年

日本映画は関東大震災を機に変わったと言われる。関東大震災による破壊は、従来の旧習を廃して、新しい文化を創造する機運をもたらした。この機運に乗って、大震災後に、日本映画は一大飛躍を遂げたのである。飯島正は、1920年代に日本映画は他の国が3…

製作が盛んになってきた中国映画界

中国の映画製作は盛んになってきていた。1925年には、13の都市で175の映画会社が設立され、うち131社は上海にあったという。 製作会社の増加の一方で、粗悪な作品が乱造されるようにもなり、1925年5月には、1922年に設立された中国で最…

シェーストローム、スティルレルを失ったスウェーデン映画界

ヴィクトル・シェーストローム、モーリッツ・スティルレルという二大監督を失ったスウェーデン映画界だったが、他にも多くの監督たちが活躍した。 シェーストロームやスティルレルよりも優れたシーンも演出したと評されるヨーン・W・ブルニウスは、大作歴史…

デンマーク カール・ドライヤーの喜劇「あるじ」

デンマークでは、カール・ドライヤーが戯曲を元にした「あるじ」(1925)を監督している。パラディウム社に移籍して監督した喜劇である。妻に家を出られた夫が、妻の大事さを知り、戻ってきた妻に愛と尊敬を誓うという内容で、テンポは遅いが、重苦しさ…

スペイン映画 1925年

スペイン映画草創期から活躍していたフランクトゥオッソ・ヘラベルトは、サルバトール・フィルムスで「マドリードの奥底で」(1925)を監督している。 1920年代のスペインでは、文芸作品の映画化が盛んに行われたと言われている。小説家のアレハンド…

イタリア 新「クォ・ヴァディス」の大失敗

1912年に、イタリア映画の存在を世界に高らかに宣言した作品があった。それは、史劇「クォ・ヴァディス」(1912)である。以後、イタリア映画は史劇、スペクタクル劇を中心に世界を席巻する。しかし、この頃にはアメリカ映画を中心とする外国映画に…

イギリス ロンドン・フィルム・ソサエティの設立

イギリスの映画製作は衰退していた。その理由は、外国映画を優先的に上映する興行側にあったと言われる。1925年には、イギリス映画の国内での上映について議論が上院で交わされたという。 1925年10月には、ロンドン・フィルム・ソサエティが設立さ…

イギリス アルフレッド・ヒッチコックの監督デビュー

1924年に自らが設立した製作会社を、ゲインズボロー・ピクチャーズへと発展させたマイケル・バルコンは、ドイツ・ウーファのエーリッヒ・ポマーと合作で、グレアム・カッツ監督「悪漢」(1925)などを製作している。 アルフレッド・ヒッチコックが「…

その他のフランス映画 1925年

ジャン・ルノワールが「水の娘」(1925)でデビューしている。フランスでは、物語を語るのではなく、映像や編集のリズムで構成された、純粋映画と言われる前衛的な映画が作られていたが、「水の娘」もその1つと言われる。印象派に近い絵画的な配慮がなさ…

フランス ハリウッドの侵攻と防衛

フランス映画界は、かつての栄光を取り戻せずにあがいていた。当時、フランスの大手映画会社パテ・コンソルシウム社は、ドイツのように国からの援助をもらえるようにと考えていたがうまくいかなかった。 上映映画の一定の割合を自国の映画の上映に割り当てら…

ドイツ トーキーへの道

ドイツでは、トーキーの研究も行われていた。トリ=エルゴン方式を開発した3人のうちの1人であるヨーゼフ・マゾレは、ウーファ発声映画部の技術監督になっている。マゾレに指導のもと、トリ=エルゴン方式によるウーファ初のトーキー「マッチ売りの少女」…

その他のドイツ映画 1925年

「ワルツの夢」(1925)は、オスカー・シュトラウス作の喜歌劇「ワルツの夢」とハンス・ミューラーの小説に基づく作品である。オーストリアでも指折りの名家の娘アリックスは、ニコラス中尉と結婚するが、中尉はウィーンから来た楽団の女に惹かれ・・・…