MGMもトーキー製作へ

 ワーナーの躍進は、当時の大映画会社MGMも動かした。社長のニコラス・スケンクは、300万ドルを支出して、劇場の全チェーンにトーキー装置を施した。そして、製作担当のルイス・B・メイヤーと協議の上、トーキー映画の製作を決めた。

 MGMは、パラマウントやユナイテッド・アーティスツとともに、1年10万ドルの権利金を払って、ムービートーン式を採用した。そして、1928年度後半の作品の2割をトーキーとして製作した。MGMの若き大プロデューサーだったアーヴィング・サルバーグは、トーキーに懐疑的だったが、その人気ぶりを見て考えを変えた。

 サウンド版として「南海の白影」(1928)を製作。その後、演劇の映画化でトーキー映画へと進出していく。