2007-02-01から1ヶ月間の記事一覧

 エジソン社の作品 1912年(7)

「CHILDREN WHO LABOR」 エジソン社による作品。子供の労働に反対する団体と協力して製作されている。 資本家の娘が行方不明になる。娘は貧しい移民の家族に拾われ、他の移民の娘たちと一緒に工場で働きだす。皮肉にも、資本家はその工場を買い取り、娘を雇…

 エジソン社の作品 1912年(6)

「A CHRISTMAS ACCIDENT」 隣同士に住む、貧しくも多くの子供たちに囲まれて幸せに暮らす家族と、金持ちだが自己中心的な老いた夫と心の優しい老いた妻の夫婦。自己中心的な金持ちの老いた夫に、隣に住む家族はいつも寛大に接している。クリスマス・イヴの夜…

 エジソン社の作品 1912年(5)

「AN UNSULLIED SHIELD」 名家の男性が享楽的な生活を送り、借金を重ねてしまう。首が回らなくなるほど借金を重ねた男性の夢の中に、輝かしい功績を残した先祖が現れて男性に説教をする。夢から覚めた男性は、母親に借金のことを話し、母親は借金の肩代わり…

 エジソン社の作品 1912年(4)

「THE PUBLIC AND PRIVATE CARE OF INFANTS」 双子を持つ未亡人が、働くために子供の1人を知人に預け、もう1人を施設に預ける。施設に預けた方の子供は適切な扱いをされず、最後には死んでしまう。 社会的メッセージの強い作品。「子供は自分で愛を込めて…

 エジソン社の作品 1912年(3)

「THE TOTVILLE EYE」 舞台は田舎の新聞社(題名は新聞名)。編集者が急遽いなくなってしまい、少年が町に出てネタを仕入れてくる。翌日発行された新聞は、飲酒したとして糾弾されていた牧師や、家主に追い出されそうになっていた女性や、ケンカ別れしそうに…

 エジソン社の作品 1912年(2)

「THE PASSER-BY」 結婚式前夜。友人たちが集まり新郎を囲んでパーティが開かれている。余興に、通りがかりの1人の初老の男性を連れてきて、その男性に過去の話をしてもらう。結婚式前夜に相手の女性に結婚を破棄され、その女性のことが忘れられずに仕事で…

 エジソン社の作品 1912年(1)

この頃のエジソン社は1巻もののライト・コメディやシリアスなドラマなどを作っていた。その質は悪くなかったものの、時代は2巻もの以上の長編やスターの時代へと移っていった。エジソン社はそうした時代の流れに対応できなかった。 エジソン社は作品よりも…

 日本 輸入映画(1912年)

当時、国内で映画を製作するより、外国映画を購入するほうが事業としての安全性が高かったため、興行映画の70パーセント以上は輸入映画だったという。 日活や天活はロンドンにある出張所や、横浜の貿易商から買い入れて興行を行った。横浜の平尾商会が名作…

 日本 明治天皇の崩御

1912年は、明治天皇が崩御し、元号が大正へと改められた年でもある。明治天皇崩御の後、乃木希典大将が明治天皇の後を追って殉死した。牧野省三はすぐに尾上松之助主演で「乃木将軍と生涯」(1912)という作品を製作している。 また、第二福宝館で上…

 日本 日活の誕生

1912年の日本映画界最大の出来事は日本活動写真株式会社(日活)の誕生である。 1911年に、エム・パテーの梅屋庄吉を中心に設立された大日本フィルム機械製造会社が、エム・パテーを買収。続いて、浅草のルナパークと大阪の劇場を火災で失い、経営的に…

 シャルル・パテ 映画産業の父(5)

第一次大戦前のシャルル・パテとパテ社の変遷を見ていくと、それは映画産業の歴史となる。映画作品の歴史の中にパテ社の作品はほとんど出てこない。シャルル・パテの主眼は、映画作品ではなく映画産業にあったのだから、それは当然のことなのかもしれない。 シ…

 シャルル・パテ 映画産業の父(4)

シャルル・パテは映画興行・製作・機材の開発といった映画に関わるあらゆる面で、他社に対しての優位を保持していた。映画初期において、映画興行・製作・機材の開発といった面はめまぐるしい勢いで変化をしていた。当初は写真が動くだけで満足していた観客は…

 シャルル・パテ 映画産業の父(3)

シャルル・パテは、剽窃による映画製作にとどまっていたわけではない。それは、初期の市場がとにかく数を欲していた時代に最も有効だった手段であり、パテは市場の需要に応えたのだった。数の需要を満たされた人々は、単に「映像」だけでは満足しなくなって…

 シャルル・パテ 映画産業の父(2)

パテは映画興行、映画製作の面を抑える一方で、映画機材の生産にも乗り出す。映画にはハードとソフトの面があり、いま「映画を語る」というと大体がソフト(映画作品)についての話になるが、ハード(機材など)の面も重要な側面である。特に、映画初期にお…

 シャルル・パテ 映画産業の父(1)

リュミエール兄弟、エジソン、ジョルジュ・メリエス、エドウィン・S・ポーターといった映画初期に名を残している巨人たちと比較すると、シャルル・パテ(写真)の影は薄い。だが、パテは映画界に確実に名前を残すに足る人物だ。 シャルル・パテの映画人生は、…

 後の映画人たちの胎動 ロイド、トゥルヌール、ガンス・・・

1912年には、後に映画人として名を上げていく人々が活躍を始めた年でもある。 チャールズ・チャップリン、バスター・キートンとともにサイレント期の喜劇を支えるハロルド・ロイドは、1912年にエジソン社に俳優として入社している。 映画監督として活…

 ロシアの映画製作 1912年

ロシアでは、「カメラマンの復讐」(1912)という作品が製作されている。 ハンジョンコフ社製作、ヴワジスワフ・スタレーヴィチ監督の動物人形アニメーションである。スタレーヴィチは他にも、「うるわしのリュカニダ」「動物の生活から」(1912)と…

 チェコ、ハンガリー、ルーマニア、スペイン・・・(1912年)

チェコにおいては、1908年、最初の映画製作会社キノーファ社が設立されていたが、1912年にはアースム社が設立され、多くの映画を製作している。野外で撮影され、ロング・ショットを繋げたものだったという。 ハンガリーにおいては、1912年に小さ…

 スウェーデン映画の勃興

スウェーデンにおいては、発声映画の特許の1つを入手して興行的に成功させたチャールズ・マグヌッソンが、1909年にスヴェンスカ・ビオ社に入社、映画製作を開始していた。さらに、マグヌッソンは1911年に小さな撮影スタジオを建設し、映画を製作し…

 ドイツの映画製作

ドイツでは1912年にトラストの設立が計画され、挫折している。 フィアグ社が、ドイツにおいて公開されるすべての映画を手中に収めようとしたが、興行者たちの反対で挫折し、清算されている。また、パテ社が1912年に代理店を置いたことに対抗するため…