2011-03-01から1ヶ月間の記事一覧

 輸入映画、記録映画、ニュース映画−1922年

1922年には下記のような映画が公開されている。 アメリカ:「征服の力」「蛟竜を描く人」「散り行く花」「東への道」「黙示録の四騎士」「かげろふの命」 「愚か者の楽園」「シーク」「アナトール」「豪傑ベン・タービン」 スウェーデン:「不滅の霊魂」…

 田中三郎と森岩雄とキネマ旬報

映画雑誌「キネマ旬報」の創刊者の1人である田中三郎は、松竹の外国部に所属しながら雑誌の編集も行っていたが、この年松竹を退社して雑誌編集に専念している。この頃になると同人も増え、古川緑波、飯島正なども参加していた。 そのキネマ旬報では、192…

 牧野省三の「実録忠臣蔵」

独立プロダクションである牧野教育映画製作所で映画製作を行っていた牧野省三は、教育的な映画だけでは経営が苦しくなっていた。 そんな牧野は「実録忠臣蔵」(1922)を製作した。赤穂城のロケに姫路城を初めて使用した。使用においては、牧野所属の映画…

 山本嘉次郎の日活入社

後に監督して活躍する山本嘉次郎は、小林正脚本、鈴木俊夫監督の「真夏の夜の夢」に出演したりと役者として活躍していた。小林と山本は親友だったという。また、山本は、岡田嘉子とラブ・シーンを演じた。横浜の大正活映の跡のセットを借りて撮影が行われ、山…

 女形の最後の輝き 日活・田中栄三監督「京屋襟店」

旧来の体質で女優ではなく女形による映画製作を続けていた日活の中で、映画革新に望んでいた田中栄三は、「京屋襟店」(1922)で監督・脚本を努めている。 女優ではなく女形が出演していた「京屋襟店」は、女形が出演する新派調映画の、最後の、そして最…

 日活 女形との訣別

当時の日活は、昼夜2回興行を行うようになった松竹に追随した。だが、昼夜2回興行を行うにあたっては、現代劇の不振を何とかする必要があった。その現代劇の足を引っ張っていたのが女形の存在だった。松竹との「永遠の謎」(1922)の競作では、女優陣…

 松竹 蒲田映画の成功

松竹蒲田が製作する映画は、製作本数が増えた。1922年の浅草松竹館では、それまでは外国映画も混ぜなければ足りなかったが、松竹映画のみで興行ができるようになった。 松竹蒲田では、若い製作人が活躍した。1922年時点で、牛原虚彦と島津保次郎は2…

 その他の松竹 1922年

蒲田では他にも、「不如帰」(池田義臣監督)、「地獄船」(野村芳亭監督、伊藤大輔脚本)、「青春の罪」「祇園夜話」「噫小野訓導」「清水次郎長」「地蔵物語」「火華」「海の呼声」「妖女の舞」「傷める小鳥」「堅き握手」といった作品が作られている。 「…

 松竹蒲田 所長野村芳亭の活躍

蒲田の撮影所長だった野村芳亭は、勝見庸太郎主演の「清水次郎長」(1922)を監督している。舞台的なものとは異なる映画的なスピーディな動きとリアルな剣戟を見せようとし、宣伝でも「新時代劇」の文句が使われたという(時代劇なる呼称がもてはやされ…