映画評 連続映画「LES VAMPIRES」

 この作品は、「連続映画」と呼ばれるジャンルの作品である。「連続映画」の定義を「映画史を学ぶクリティカル・ワーズ」(村山匡一郎編、フィルムアート社)から引用すると、「連続活劇とも称され、一つの物語が12話から36話ほどのシリーズで構成され、ほぼ週替わりで上映された映画のこと」とある。

 当時、連続映画はブームであり、「カスリーンの冒険」(1914)や「ポーリン」(1914)といったアメリカの作品から、日本でも大ヒットしたフランスの「ジゴマ」(1911)といった作品が作られている。この作品の監督であるルイ・フイヤードは、同じく連続映画である「ファントマ」(1913)シリーズの監督もつとめており、連続映画の名手とも言われている。

 そして、「LES VAMPIRES」であるが、なかなかおもしろい。強盗だけではなく殺人も平気で行う「ヴァンパイア」一味はかなり非情な悪の組織だ。目的が不明なところも不気味で、「謎の悪の組織」という雰囲気を存分に漂わせている。かなり馬鹿馬鹿しい設定だが、この馬鹿馬鹿しい設定が、この後も様々な映画に応用されて、私たちを楽しませてくれるのだ。

 「ヴァンパイア」一味のアイドル的存在であるイルマ・ヴェップは、度胸があってセクシーだが、目的不明で何のために生きているのかわからない。ただ、魅力的な「ヴァンパイア」の一員というだけで、映画を活気付けることに成功している。

 この作品は全体を通して見ないとその魅力は十分に伝わらないだろう。当時作られた連続映画の中で、すべてのエピソードを見ることができる作品はあまり多くはない。「ポーリンの危難」の名前で日本でもビデオが発売されている「ポーリン」(1914)も、見ることができるのは数エピソードだけである。全体を通して見ることができないために、おもしろいともつまらないとも判断ができない。

 連続映画はテレビの連続ドラマの先駆けといえると言われているが、この作品を見るとそのことがよくわかる。「ヴァンパイア」を主人公(フィリップ)が追うという枠組みの中で、映画はエピソードを追うごとに変化していく。

 象徴的なのは、主人公のフィリップの友人となるマザメッティである。冒頭で金のために「ヴァンパイア」の末端で働いていることが明らかになるマザメッティ(フィリップにばれるたびに、厳しい家計状況を涙ながらに語る姿で笑わせる)は、途中からフィリップと協力してヴァンパイアを追うようになる。さらには、偶然の幸運から大金を手に入れて有名人となり、最後には結婚相手まで見つける。マザメッティは典型的なコメディ・リリーフ的存在で、その軽くてすぐに調子に乗るが憎めないキャラクターで、本当ならば残酷な犯罪映画であるこの作品を気楽に楽しめる映画としてくれている(その意味でこの作品は007シリーズにも通じるものがある)。おそらく、当時人気を呼んだであろうマザメッティのキャラクターが変化していく様子が、映画の魅力の一つとなっている。

 「ヴァンパイア」のボスを殺したと思ったら、「自分が新しいヴァンパイアのボスだ!」と別の男がボスになったり、「ヴァンパイア」のボスの部屋の隠し扉の中には大砲が設置されていたりと、説得力がまるでない展開や小道具がまた、映画を活気付ける。すべては映画を楽しくするためにだけ存在するこれらの設定があるからこそ、映画は連続映画として10話続けることができたのだろう。

 展開も無理がある。マザメッティはあまりにも「偶然に」ヴァンパイアの犯行を目撃しすぎるし、その割には犯行が行われるまで待ちすぎて失敗したりする。ヴァンパイアのやり方は回りくどく、何回も殺人に失敗しているように感じられる(回りくどくやることが美学なのかもしれないが)。しかし、これもまた映画を楽しくするために十分の役割を果たしている。

 フイヤードの演出はテンポがよく、連続映画にぴったりだ。ややっこしい部分は字幕に頼っているが、字幕に頼らないことよりもテンポがいい方を選択したのだとしたら、それは成功しているように感じられる。馬鹿馬鹿しさとテンポのよさが失われ、その代わりに字幕に頼らない映像美学があったとしても、そんな「LES VAMPIRES」が楽しいものになっていたとは思えない。

 「LES VAMPIRES」が、第一次大戦中に製作されたことは注目に値するだろう。この馬鹿馬鹿しくも、楽しい連続映画は、戦争中のフランスの人々にどういう気持ちで捉えられたのだろう?「ヴァンパイア」とフィリップたちの、実は中身のない闘いに、当時のフランス人たちは、第一次大戦を重ねていたのかもしれない。