続くMPPCと独立系の映画製作会社の対立(1)

 アメリカではMPPCが独立系の映画会社に押されていた。1911年には、トラスト側が40万メートルの映画を製作していたのに対し、独立系は30万メートルの映画を製作していたという。

 MPPC側にとっては、大きな打撃となる出来事もこの年にあった。生フィルムの製造会社であるイーストマン社が、MPPCに対する独占販売契約を破棄したことだ。それまでリュミエール社からフィルムを購入していた独立系の映画製作者たちは、堂々とイーストマン社から生フィルムを購入することが出来るようになった。だが、これ以前から、アメリカにおけるリュミエール社の代理人は、イーストマン社と密約を結んで、イーストマン社のフィルムをリュミエール社のフィルムとして独立系に売っていたと言われている。

 配給の面では、1910年に設立されたMPPC側のジェネラル・フィルム社が、57のアメリカの主要な配給業者の元締めとなっていた。これは半数以上の映画館をMPPCが保有することを意味していた。しかし、MPPC側はこの優位性を維持できなかった。その理由は、当時日替わりだった上映番組をMPPC側の映画製作者がカヴァーできなかったからだった。独立系の映画製作者たちはそんな興行者側の不満を汲み取り、徐々にシェアを広げていった。

(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。