ミューチュアル社の誕生

 カール・レムリをボスとするユニヴァーサルが設立された一方、マジェスティック社を保有していたエイトケンとフロイラーは1912年3月にミューチュアル社を設立している。ミューチュアル社の傘下にマジェスティック社、アメリカン・フィルム社をおいた。ケッセルとボーマンのバイソン社ともグループを形成(バイソン社の傘下にはニューヨーク映画社とリライアンス社があった)してユニヴァーサルに対抗した。

 ミューチュアルの傘下には、さらにコメディ専門のキーストン社とケイ・ビー社(ケイ・ビーはケッセルとボーマンの頭文字)設立された。キーストン社には、バイオグラフ社でD・W・グリフィスの元で修行し、バイオグラフ社の喜劇部門のトップとなっていたマック・セネットをチーフとして招いて映画を製作した。セネットとともに、後にチャップリンとのコンビ作も送り出すメイベル・ノーマンドもキーストンに入社している。キーストン社は毎週1本の1巻物(約15分)か2本の半巻物を量産した。ほとんど喜劇だが、ニュース映画も製作した。セネットは俳優兼監督である数人の「ディレクター」を管理する製作責任者の役割を果たした。喜劇役者たちは即興的に映画を撮影したが、トマス・H・インスとグリフィスの影響を受け、編集にも重きを置いた(カット・バック、細かいショットによって速いペース。演技や筋書きが劣った作品をペースを速めることでカバー)と言われている。

 ユニヴァーサルとミューチュアルのグループはトップ同士の仲が悪かったこともあり、対抗し合い、互いに殴り込みをかけるなど暴力をともなった。しかし、両者とも利益がないことを悟り、レムリとケッセルの間で妥協案がまとまり、収束したという。



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。