D・W・グリフィスのバイオグラフ社からの離脱

 完全に独立側に押されていたMPPC側の映画製作では、カーレム社がキリストの生涯を映画化した作品を製作した。キリストを冒涜しているという議論も起こったが、興行的にはヒットした。

 MPPC側で何とかがんばっていたのは、バイオグラフ社だった。その最大の要因は、D・W・グリフィスを擁していたからだった。そんなグリフィスは1913年に自身初の4巻ものの「ベッスリアの女王(別名:アッシリアの遠征)」を製作している。

 内容は、聖書に題材をとった物語で、スタジオ内の俳優全員が参加し、他の監督たちも助監督として駆り出された。「クォ・ヴァヂス」(1912)のような史劇を見て製作したとも言われているが、グリフィスは見たことがなかったと語っていう(イタリアの大作史劇「クォ・ヴァヂス」は1913年にアメリカで公開され、通常の4倍の入場料である1ドルで公開されたが大ヒット。アメリカ映画の長篇化に影響を与えたといわれている)。

 費用がかかり(製作費3万6千ドル)、本社はグリフィスを抑えようとしたという。当時、アドルフ・ズーカーの長篇路線に対抗して、バイオグラフも長篇を作ろうとしていたが、グリフィスにまかせる気はなく、グリフィスには安上がりな1,2巻ものを期待していたのだという(テリー・ラムジーは、「ともかく映画を即席で作らなければならなくなると、グリフィスの包丁さばきは早かった」と書いている)。

 2巻以上の作品をグリフィスに製作させようとしなかったバイオグラフ社に不満を持っていたグリフィスは1913年に、ミューチュアル社へ移籍する。週給は1,000ドルで映画製作の総責任者を務める一方、製作会社であるマジェスティック社で年2本の映画を撮る権利を得る。

 グリフィスの移籍と共に、リリアン・ギッシュらグリフィス組の監督や役者も一緒に移籍した。グリフィスの右腕だったカメラマンのビリー・ビッツァーは一度断ったが、グリフィスに口説き落とされ、移籍している。

 バイオグラフ社は「ベッスリアの女王」のフィルムを6ヶ月寝かせておき、グリフィスの移籍後初の作品に合わせて公開したが、その間に外国製の長篇が上映され、新味は薄れてしまい、興行的に失敗した。

 MPPC側で気を吐いていたバイオグラフ社だったが、グリフィスを失うことでその勢いは衰えていくことになる。

 グリフィスが1913年に監督した他の作品には、「THE MASSACRE(大虐殺)」「THE HOUSE OF DARKNESS(暗黒の家)」「DEATH'S MARATHON(死のマラソン)」「THE MOTHERING HEART(母のような心)」などがある。



(映画本紹介)

リリアン・ギッシュ自伝―映画とグリフィスと私 (リュミエール叢書)

リリアン・ギッシュ自伝―映画とグリフィスと私 (リュミエール叢書)

D・W・グリフィスの主演女優としても有名なサイレント映画を代表する女優の一人であるリリアン・ギッシュの自伝。グリフィスについての記述がかなり多く、グリフィスを知る上で非常に役に立つ1冊。