パラマウントの設立

cinedict2007-07-15


 当時はまだ映画製作者たちが中心に活躍した時代であったが、大会社がハリウッドを支配する準備は着々と行われていた。

 1914年頃にはニューヨークに豪華なバイタグラフ劇場や、座席数3,000で赤絨毯を敷きつめた宮殿のように豪華なストランド劇場ができるなど、映画館が整備されていた。また、長篇化やスター・システムや設備費など映画製作には多額の費用がかかるようになっていた。映画興行と映画製作の中間の役割を果たす配給業は、効率的に映画配給を行いたい映画製作と、効率的にヒットする映画が欲しい映画興行の間でより重要な役割を果たすようになっており、よりうまみのある仕事となっていた。

 W・W・ホジキンソンはそんな配給業務に目をつけた。映画配給会社パラマウントを設立したホジキンソンは、アドルフ・ズーカーのフェイマス・プレイヤーズ社や、前年に設立されたジェシー・ラスキーのラスキー・フィーチャー・プレイ社と契約して成長した。また、第一級の映画館とも契約し、「一級の映画館で一級の映画を」をモットーとした。パラマウントは数万ドルの製作費を映画製作会社に前払いする代わりに、興行収入の35パーセントを得た。残りの65パーセントが製作会社の取り分となった。この割合は、アメリカの映画製作・配給の平均となっていく。

 1913年に設立されたラスキー・フィーチャー・プレイ社は、いずれ短編は飽きられると読み、長篇を作ろうとした。そんなラスキー社が第一作として選んだ作品が「The Squaw Man(スコウマン)」である。ヒット戯曲だった「スコウマン」の映画化権料と、主役に迎えたダスティン・ファーナムへの出演料に会社の資本金のほとんどを使ったという。

 長篇を作っていくにあたって、ラスキー社はヒットした舞台の映画化を行っていこうとしていた。その面で、監督に迎えたセシル・B・デミルの存在は役にたった。デミルの家族は演劇人であり、演劇界の大プロデューサーたちとの親交もあったからだ。

 「スコウマン」は、ネイティブ・アメリカンの女性を妻とした白人男性の物語で、舞台は西部だった。デミルの撮影隊は当初、アリゾナ州へ向かったが、撮影には向かないと判断してハリウッドで撮影された。ハリウッドでは納屋を借りて、撮影所に改造して撮影した。また、経験が浅かったため、ネガフィルムが利用不能だったりというトラブルもあった。

 このトラブルについて面白い話がある。フィルムの送り穴が間違っているなどのミスがあり、困ったデミルらを助けたのは、独立系のラスキー・フィーチャー・プレイとは敵対しているはずの、MPPCの参加社の1つルービン社のボスのシグムンド・ルービンだったというのだ。ルービンは部下に仕上げを命じて、映画は無事完成されたのだった。その後ルービンの会社は崩壊し、ルービンは1923年に死去してしまうことになる。

 こうしてなんとか完成した映画はヒットし、原価の倍の244,700ドルを売り上げる。デミルも投資のために銀器を質に入れていたが、取り戻せたという。また、成功の一因には営業担当だったサミュエル・ゴールドウィンの売り込みもあったといわれている。また、「スコウマン」はハリウッドで製作された実質的な最初の長篇映画ともいわれている。

 ラスキー・フィーチャー・プレイ社はほかにも、ヴァージニア出身のヒーローを描いた西部劇「ヴァージニアン」をセシル・B・デミル監督で製作している。ヒット舞台の映画化で、「スコウ・マン」のダスティン・ファーナムが主演した。

 シーリグ社では、西部劇「スポイラーズ」が製作され、大劇場のこけら落とし作品として公開された。アクションたっぷりの9巻ものの大作で、特に全1巻にわたって繰り広げられる格闘が迫力満点だった。



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。