チャップリンの映画製作への情熱と移籍

 チャップリンはキーストン時代から映画製作について自ら進んで学んでいったようだ。マック・セネットは当時のチャップリンについて次のように語っている。

「毎晩遅くまで働いて倦むことを知らない男はチャップリンにきまっていた。自分が働く時はもちろんだが、暇さえあれば他人が働いているところを熱心に見学し、採り入れるべきものはどしどし自分のものにしていた。彼ほどの勉強家を私は知らない」

 組織者・指導者であるマック・セネットと、職人気質のチャップリンは相容れない存在だった。チャップリンはエッサネイ社に移ることで自由を得る。サドゥールは次のように書いている。

「エッサネイ社との契約で、彼(チャップリン)は、小さな企業者となる煉瓦職人のように自分で責任を取り始めた。特に、自らの主人そして自分の芸術の主人となることが彼にとって重要なのである。彼は自分の創作と同様に自分のやり方において個人主義者であり、そうあり続けることであろう」

 セネットとチャップリンの間に溝(それはセネットの権威を脅かすものでもあった)が出来てきたと同時に、キーストン社がチャップリンに高額の給料を払うと、他の俳優の給料も上げなければならないとセネットが考えたとも言われている。



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。