トマス・H・インス 映画製作を変えた男

 トマス・H・インスの名前は映画史において一級品であるが、超一級品ではない。同時期に活躍した監督であるD・W・グリフィスが超一級品であるの比較すると、なぜインスの名前が一級品どまりなのかが見えてくる。

 答えは簡単だ。インスには代表作がないのだ。もし、「サイレント映画を見てみよう」とか「映画史を学ぼう」とか思った日本人にとって、まず見る作品はグリフィスの「国民の創生」(1915)や「イントレランス」(1916)であったり、チャールズ・チャップリンの諸作品だったりするだろう。ここにインスの作品の名前は出てこない。

 日本で、気軽に見ることができるインス作品は残念ながらない。では、アメリカではインスの作品は気軽に見られるかというと、そうでもないように思える。もちろん、日本よりも見られる作品は多いものの、例えば「インス作品集」のようなDVDが発売されているわけではないし、最も有名な作品と思われる「シヴィリゼーション」もDVD化はされていない。

 こういった事情によって、特に日本においてはグリフィスらと比較すると知名度が劣る人物である。しかし、それでもインスの名前が「一級品」であることに違いはない。それはなぜか?

 D・W・グリフィスは、映画の父と言われている。現在につながる映画話法を完成させた人物として、グリフィスの名前は映画史に燦然と輝いている。対して、インスが行ったことは、映画話法といった個別の作品における技術の発展ではない。インスが行ったことは、映画の作り方の変化である。

 現在の映画製作においては、様々な役割が分業化されている。製作、監督、脚本、撮影、照明、セット・デザイン、小道具、衣装、編集、特殊効果、音楽、記録・・・・と無数にある。映画草創期においては、このような分業化はされていなかった。リュミエール兄弟によるシネマトグラフの撮影においては、スタッフはカメラを操作する人だけだった。映画がストーリーを語るという形へと変化していくことで、様々なスタッフが必要となっていったのだ。

 D・W・グリフィスが「イントレランス」を監督したときでさえ、きちんとした脚本はなかったと言われる。もちろん、グリフィスの頭の中には全体像が出来ていたことだろうし、各スタッフへの指示の文書もあったことだろう。だが、誰もがそれを見れば全体を把握することができるような脚本はなかったという。

 インスが行ったのは、映画撮影ための説明書作りを行ったと言い換えることもできる。インスは、脚本家とともにテーマと役を演じる俳優を選択し、次にショットを頭に浮かべながら脚本(入念な撮影台本)を構成。撮影には介入せず、撮影されたフィルムを元にインスが編集を行うという方法で映画製作を行った。極端に言うと、インスは室内から一歩も出ることなく、安楽椅子にいながらにして映画製作を行う方法を考え出したと言えるだろう。

 インスの方法で最も重要なのは、脚本作りという点だろう。ここでいう脚本とは、単純に物語の筋を運ぶだけのものではない。ショットの構成やカメラの位置などまでを指定した、映画を撮影するために書かれた脚本のことである。この方法によって、どの程度のコストになるのか、どの程度の日数が必要になるかといった面を事前に把握することが可能になるからである。

 この方法は後に映画が産業としての規模が大きくなるためには、必要不可欠なものとなり、大映画会社はこの方法を取り入れて映画製作を行っていくことになる。

 インスがこの方法を取り入れたのは、1912年頃からだと言われている。まだ映画製作の規模が小さく、個人レベルでの「芸術家」が存在しえた時代である(その最後の人物はD・W・グリフィスで、最後の作品は「イントレランス」だろう)。そんな時代に、この後のプロデューサー・システムに通じる方法を取り入れているという点で、インスの先見の明は賞賛に値する。

 映画の産業化に貢献したという面がある一方で、インスの方法は、映画を管理することを容易にしたという面も持っている。映画製作を行う会社側は、しっかりとした脚本に従った映画製作を映画監督らに求め(また、従うことができる監督を優遇し)、映画監督の創造性を抑え込んだという面もある。だが、脚本が重要になってきたために、会社側は有能な脚本家を育て上げたという面も持っている。

 他にも、インスの方法が取り入れられたことによる影響として、1本の映画に対する貢献度が見えにくくなったという点が挙げられる。

 D・W・グリフィスの、少なくとも「イントレランス」までの作品は、ほとんどがグリフィスの功績によるものと言って言いだろう。明確な脚本を作らず、全体像を自らの脳の中にとどめて映画を製作したというグリフィスの撮影方法がそれを物語っている。だが、インスの撮影方法は、ある映画作品の功績が、最初に作られた脚本にあるのか、それとも現場で修正して撮影されたり即興で撮影されたりしたことによるものなのか、はたまたそれら全てが製作者によるものかは、よく精査してみなければわからないだろう。この貢献度の見えにくさはまた、現在でも通じるものだ。

 このようにインスは、現在にも通じる映画製作方法を作り上げた存在として映画史に一級品の名を残すに値する人物だといえるだろう。

 ちなみに、インスは自分が実際に監督していないで、スーパー・バイザー的な立場だった作品にも監督名として自分の名前を入れるという虚栄心溢れることも行っていたという。この虚栄心も、映画製作に関わる人々がこの後も見せていくものである。

 そんなインスは、1924年に新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストが開催したボート上のパーティの最中に、心臓発作で死去する。実際は自然死であったと言われるが、ハーストがインスを射殺したといったゴシップが流れてスキャンダルとなった。こうしたスキャンダルもまた、この後の映画界(特にハリウッド)をにぎわしていくものとなる。インスは最後まで、今にも伝わる映画界の一面を見せて死んでいったのだった。