ルイス・B・メイヤーが映画製作に乗り出す

 後にMGMの大物として活躍することになるルイス・B・メイヤーが、1918年に映画界製作に乗り出している。

 貧しい幼少時代を過ごしたメイヤーは、ボストンを拠点に配給業を行っていた。D・W・グリフィスの「国民の創生」(1915)や、セシル・B・デミルの「スコウ・マン」(1914)のマサチューセッツ州の権利を買い取り、配給を行って財をなしたという。

 ルイス・B・メイヤー製作会社を設立して映画製作に乗り出したメイヤーは、ヴァイタグラフ社のスターだったアニタ・スチュワートを引き抜き看板スターとし、シーリグ社の構内を借り、撮影所を設けた。監督にはフレッド・ニブロジョン・M・スタールを雇い、ファースト・ナショナル社に配給を依頼した。

 当時のチャールズ・チャップリンの妻だったミルドレッド・ハリス・チャップリンとも契約している。この際、反対するチャップリンと殴り合いのケンカをして、メイヤーが勝ったとも言われている。

 メイヤーは映画製作会社としての地歩を固めていき、後のMGMへとつながっていく。

アメリカ映画の大教科書〈上〉 (新潮選書)

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アメリカ映画の大教科書〈下〉 (新潮選書)

アメリカ映画の大教科書〈下〉 (新潮選書)