早川雪洲のパラマウントからの独立

 「チート」(1915)のヒットにより、ハリウッドのトップ俳優の1人となっていた日本人の早川雪洲は、1918年にパラマウントから独立し、自分のプロダクションであるHaworth Pictures(ハウアス・ピクチャーズ)を設立している。1922年に解散するまでに、早川は22本の映画を名だたる映画人たちに伍して製作した。また早川はハリウッドの人気スターとして、当時の他のハリウッド・スターと同じような王侯貴族のような生活も満喫したと言われている。

 そんな早川雪洲の成功について、垣井道弘は「ハリウッドの日本人」の中で次のように書いている。

 「草創期のハリウッドで活躍した早川雪洲の全盛時代は、アメリカの日系移民が急増すると共に日本が国際的な舞台に初めて登場した夢がいっぱいの時代だった。悪役でチャンスを掴んだ早川雪洲は、長男の雪夫氏のいう「必要以上に日本人らしく見せる」ことで成功し、ハリウッドに君臨した。その雪洲をリーダーとする日本人俳優たちが表現した日本人の伝統的な風俗や文化が、欧米の白人社会にはなかった新鮮な魅力として受け入れられた」P98

ハリウッドの日本人―「映画」に現れた日米文化摩擦

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