経営危機に陥ったイタリアの映画会社

 11月に第一次大戦終結終結するも、国内の社会不安が高まっており、イタリアの映画界は新しい要求に応えられなかったという。さらには、フランス映画の発展、デンマークとドイツ映画という新興勢力、1916−17年にヨーロッパを襲ったアメリカ西部劇と喜劇の大攻勢といった外国の脅威も大きかった。

 かつては、各国で積極的に輸入されたイタリア映画だったが、誇張された情熱と姦通劇の多いイタリア映画は、ピューリタンの多い英米から締め出されることとなった。フランスでは、イタリア人スターの大げさな芝居は笑いの種となった。さらには、戦争とロシア革命で、中欧・東欧からの輸出収益も失った。

 イタリア映画界はこうした苦しい状況にあった。にも関わらず、製作者たちは以前と同様の試みを繰り返し、改革を行わなかったという。

 こうしたイタリア映画界の危機的状況を象徴するように、第一次大戦後の経営危機によってイタリア初の映画製作会社であるアンブロージオ社の創設者であるアルトゥーロ・アンブロージオが映画界から身を引いている。経営権はミラノの投資会社に移り、アンブロージオ社は製作活動を中止している。

 チネス社も経営危機に陥り、1910年頃にチネス社が経営危機に陥ったときに会社を建て直したファッシーニ男爵がチネス社から去っている。ミラノ・フィルムスも経営危機に陥り、弁護士ジュリオ・リーヴァが代表に、ニーノ・ヴァレンティーニが製作担当になって再建され、1923年まで活動していくことになる。イタラ社では、弁護士メケーリを社長に迎え、ジョヴァンニ・パストローネが製作担当となっている。また、映画監督のルチオ・ダンブラは、ルチオ・ダンブラ・フィルム社を設立している。


映画史を学ぶクリティカル・ワーズ

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