映画評「デセプション」

 原題「Anne Boleyn」 製作国ドイツ
 メスター・フィルム、ウニオン・フィルム、ウーファ製作
 監督エルンスト・ルビッチ 出演エミール・ヤニングス、ヘンニー・ポルテン

 16世紀のイングランド。好色な王ヘンリー8世は、美しいアンに目をつける。ヘンリーにはキャサリンという妻がおり、カトリックの掟に従えば離婚が出来なかったが、カトリックと断絶することでアンと再婚する。しかし、アンが産んだ子供がヘンリーの待望する男の子ではなく、女の子だったことから溝が生まれる。

 史実を題材にして作られた作品である。「パッション」(1919)でフランス王室を描いたルビッチにとって、「ファラオの恋」(1922)と合わせて史劇3部作と言われる。だが、決してルビッチが望んで撮ったというわけではなく、第一次大戦の敗戦で暗い世相をドイツ人にとって、豪華絢爛な史劇が好まれてヒットしたために作られたと言われている。

 イギリスの王室を描いた作品がドイツで作られるというのは多少奇異に感じられるかもしれない。だが、強欲な王とその王によって苦しめられる女性を描いた作品が、当のイギリスで作られることは、少なくとも当時は難しかったことだろう。「デセプション」が公開されたとき、国外からイギリスを侮辱しているという声が上がったという。そうした意図はなかったと言われるが、ドイツの国民が第一次大戦戦勝国であるイギリスの恥部とも言える歴史を、エンタテインメントの舞台として心置きなく楽しんだことは事実だろう。

 比較的歴史に忠実だと言われるが、それは大枠の話である。気が進まないながらもヘンリー8世と結婚したとか、1人の男性を愛し続けたとかいった部分は実際にどうだったかは分からない。とはいえ、前王妃の末路を自身も辿ることになる運命の皮肉などは実際にあったものだ。メロドラマ的な部分はさておいて、「デセプション」はアン・ブーリンという女性がどのような運命を辿った人物かを知る参考書的な役割を果たしてくれるだろう。

 メロドラマとしては、少し弱いように思えた。こちらの方が映画にとっては重要だ。アンとアンが思い続ける男性との関係は、非常に中途半端に描かれている。アンも、もし男の子を産んでいたら、ヘンリー8世の寵愛が続き、そのまま幸せに暮らしたのではないかと思わせる。愛が勝つか否かがメロドラマの最大の魅力だが、「デセプション」には愛の存在すら怪しい。

 むしろ「デセプション」にあるのは、メロドラマに合う熱さではなく、乾いた冷たさだ。それを象徴するのがエミール・ヤニングス演じるヘンリー8世だろう。ヤニングスはまさにハマリ役で、欲望の赴くままに生きる姿が、非常にナチュラルに描かれている。おいしいものがあれば食べ、美しい女性がいれば口説く。この姿が非常に真っ直ぐなのだ。例えば、女性に対しても、陰謀や術策を張り巡らしたりはしない。とにかく、口説く。ボールが飛んでいった茂みで2人きりになろうとしたり、夜這いをかけに行ったりと、その行動は10代の若さを感じる。だからこそ、心変わりした後の冷たさといったらない。姿を見かけても露骨に嫌な顔をするし、アンの前でも平気で新しい愛人に色目を使う。

 アンの叔父の冷たさも印象に残る。まるでアンが王女として生きることが出来た代償を支払わせるように、ヘンリー8世が心変わりをした後は、粛々とアンを追い詰めていく。その官僚的な冷たさには、背筋が冷たくなる。

 乾いた冷たさは、衣装や群衆にも感じられる。どんなに豪華な衣装を着ようとも、王の意向1つで運命は変わってしまう。豪華な衣装は、まさに虚飾の象徴だ。完全に心が離れたヘンリー8世の心をつなぎ止めるために、愛人と出かけたヘンリー8世の後を、豪華な衣装を着たアンが追いかける。その姿を見たヘンリー8世の侮蔑の表情は、もはや豪華な衣装が何の意味もないことを示す。

 群衆は、「デセプション」の最大の見せ場と言われる。第一次大戦後のインフレ期だったからこそ可能だったとはいえ、群衆シーンのためにかなりの製作費がかかっているという。しかし、この群衆は、ほとんど何もしない。いるだけだ。ヘンリー8世とアンの結婚式のシーンでは、多少抗議をする群衆も見えるが、それはちょっとした添え物のようだ。

 エルンスト・ルビッチの監督作だが、いわゆる「ルビッチ・タッチ」は見られない。演出上の工夫といえば、上下を切ってワイドに見せたり、四角に切って人物に合わせたりといった画面構成について程度だ。ルビッチは「演出」をほとんどしていない。だが、役者たちや群衆をうまくまとめ上げるという「監督」の役割はうまく果たしたのだろう。そうでなければ、大規模な史劇を3作も監督できない。

 それにしても、この時代のエミール・ヤニングスには恐れ入る。あの巨体は役柄を狭めそうなものだが、王から市井の人々までヤニングスは演じ分ける。しかも、ルビッチやF・W・ムルナウといった監督たちの作品に出演して、それぞれきっちりとした仕事をしてみせる。ヤニングスがドイツ映画界にいなかったら、果たしてどうなっていたことだろう?