映画評「夢の街」

 原題「DREAM STREET」 製作国アメリ
 D・W・グリフィス・プロダクション製作 ユナイテッド・アーティスツ配給
 監督・製作・脚本D・W・グリフィス 出演キャロル・デンプスター、チャールズ・エメット・マック
 
 「散り行く花」(1919)と同じ原作者による別エピソードを、D・W・グリフィスが監督した作品である。これまでのグリフィス作品の常連だった役者は出演しておらず、かつてはリリアン・ギッシュが演じた役柄をキャロル・デンプスターが、リチャード・バーセルメスやロバート・ハロンが演じた役柄をチャールズ・エメット・マックが演じている。

 舞台はイギリスの街。仲の良い青年の兄弟が住んでいる。兄のラルフは美しい声を持っており、弟ビリーには作曲の才能がある。2人は踊り子のジプシーに恋をする。ジプシーはラルフの愛を受け入れ、ビリーは嫉妬に駆られる。

 当時のグリフィスは、落ち目だったと言われている。「散り行く花」(1919)「東への道」(1920)「嵐の孤児」(1921)といったヒット作・話題作を送り出しながらも、製作費を顧みない映画製作により、経済的には苦しかったのだ。内容的にも、グリフィスの説教臭いメッセージは、徐々に大衆に背を向けられ始めていたという。

 「夢の街」は説教臭い作品だ。冒頭では「善と悪」についての長い字幕を見せられ、善と悪を象徴する人物(牧師とバイオリン弾き)が、主要登場人物たちの葛藤を表現するために登場する。この分かりやすい説教臭さは、グリフィス作品の特徴である。問題は、映画が説教臭さを感じさせないものになっているかということだ。グリフィスは卓越した演出や、絶妙なストーリー・テリングによって、説教を忘れさせる作品をこれまでに送り出している。

 残念ながら、「夢の街」は説教臭さを打ち消すことに失敗しているように思われる。火事になった劇場におけるパニックといった派手な演出や、誤解からラルフがジプシーに裏切られたと思い込む後半の展開など、見どころは多くある。特に、裁判のシーンがよい。証言を終えて側を通りかかるジプシー、被告人席に座るラルフの手に、ジプシーが手でチョンと触れる。このシーンのさりげなさ、やわらかさには並の監督では表現できない感情が詰め込まれている。ギュッと手を握るのではなく、チョンと触れるからこそ、このシーンは生きているのだ。

 見どころがあるにもかかわらず、説教臭さを消すことができなかった理由は何であろうか?1つには、随所に織り込まれる説教臭い字幕と、映像がある。特に、悪を代表するヴァイオリン弾き。普段の顔はマスクであり、マスクを取ると醜悪な顔の男であるという分かりやすい設定に加え、時折地獄絵図のような映像が差しこまれる念の入れようだ。映像自体にキッチュな魅力があるものの、説教臭さを助長するものであることに変わりはない。

 もう1つの理由は、役者だ。キャロル・デンプスターは、リリアン・ギッシュと似たメイクを施されている。時折、ギッシュのように涙を湛えたこわばった表情を見せたりもする。だが、役者が変われば魅力も変わる。ダンスをしているシーンの溌剌さと比べると、ギッシュ的な演技をしているデンプスターは、あまりにも窮屈そうだ。ビリーを演じるチャールズ・エメット・マックも、過度に「散り行く花」のリチャード・バーセルメスを真似ているように感じられた。

 世の中が変わり、俳優が変わる一方、変わっていないものもある。それが、グリフィスだ。程度の差こそあれ、グリフィスの作品には説教臭さが付きまとう。説教臭さは、大体において心地よいものではない。思えば、「イントレランス」(1916)以後の作品で、成功作と言われているものは、いずれも説教臭さが前面に出ていないものばかりだ。グリフィスは変わっていない。問題は説教臭さが前面に出ているかどうかだ。「夢の街」では少し前に出過ぎている。

 「夢の街」では、音を同期させたシーンをオープニングにつけたバージョンがあり、一部の観客のみを対象に公開もされたという。技術的な制約もあり、一般的には公開されなかったようだが、グリフィスが映画技術への飽くなき探求心を持っていたことを知ることができる。映画への変わらぬ情熱も、まさにグリフィスだ。

 「夢の街」は失敗作だろう。だが、変わらないグリフィスの足跡を辿ることは決して損なことではないと思う。代表作とは言えない「夢の街」だが、いかにもグリフィス的な作品であることは特筆すべきことだ。失敗しようとも、グリフィスの映画はグリフィスの映画なのだ。だから、失敗作であると共に、愛すべき作品でもある。