ロマンティスト ジョン・ギルバートの成功

 MGMの大作「ビッグ・パレード」(1925)に主演したジョン・ギルバートは、オペレッタ映画「メリー・ウィドー」(1925)にも出演してスターへの道を突き進んでいた。ダニロ伯爵は、ニューヨークから来た劇団の花形サリーに恋に落ち、ライバルを蹴落として婚約するが、ダニロの叔母は2人の結婚を許してくれず・・・という内容の作品だ。

 ちなみに、「メリー・ウィドー」(1925)の監督は、「グリード」(1924)をMGMに短縮させられたエーリッヒ・フォン・シュトロハイムである。シュトロハイムは、「グリード」の膨大な予算オーバーを補うために、会社から監督を命じられたのだった。シュトロハイムはこの後MGMを飛び出し、パラマウントに移籍する

 ギルバートは、元々は舞台俳優だったが、映画監督になろうとして俳優をやめ、モーリス・トゥルヌールの助監督を務めた。だがうまくいかず、金に困ってハリウッドで映画俳優になったのだった。

 そんなギルバートは自身の成功を、素直に喜んだと言われる。そういったギルバートの単純さの魅力を、アレグザンダー・ウォーカーは、「スターダム」の中で次のように書いている。

 「ジョン・ギルバートにロマンティックな活力ととめどない精力を与えたのは、まさにこの子供っぽい気性と感情的な未熟さ、そしてさらに自分が書き表す気持ちや、映画の中で息を切らさんばかりに激しく演じる感情に全身をゆだねてしまう非凡な能力にあった」

 この魅力は、ギルバートの容姿とも調和していた。ギルバートの演技は男らしく見え、同時期に大スターだったルドルフ・ヴァレンティノとは異なり、男性に反感を与えずに女性ファンを魅了できた。1926年に死去するヴァレンティノを失った後の女性の心を、ロナルド・コールマンと共に奪ったと言われる。

 「ビック・パレード」の監督であるキング・ヴィダーは、ギルバードに典型的な兵隊になり切らせたという。そんなギルバートは、演じる役柄を私生活にも持ち込んだと言われている。こうした傾向はギルバートに限ったことではなく、特に1920年代において多かったという。アレグザンダー・ウォーカーは「スターダム」で次のように書いている。

 「幻想の世界を現実の世界の中に作り出すのは、映画スターの世界にごく普通に見られる職業病の一つである」

 1920年代はスターの時代だった。出口丈人は「映画映像史」の中で、次のように書いている。

「この時代は、映画史上でもまれにみる美男美女の時代である。無声映画は、個々の人間固有の声、発声などを伝えることがなく、声の善し悪しやせりふ回しの巧拙を問われることがない。また、ヌードはもちろんのこと、観客がスタイルに眼を奪われるほど体の線を見せる衣装が主流になることもなかった。いきおい観客の目は容貌に注がれたから、とくに要望のきわだった者がもっとも魅力を発揮し得たのである」
 一方でスターの力は、映画監督の個性を奪ったという意見もある。ジョルジュ・サドゥールは、「世界映画全史」の中で次のように書いている。

 「彼ら(多くの監督たち)の大部分は、しかしながら、本当の個性を発揮することに成功したというより、スターたちに服従してしまっていた。これはハリウッドという新たなる組織の大部分にとって誤りであった」

映画映像史―ムーヴィング・イメージの軌跡

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