イタリア 高まる映画研究への気運

 一方で、映画を研究しようという気運がイタリア内で高まっていた。1926年には、新聞の映画批評家担当者アレッサンドラ・ブラゼッティが月刊映画批評誌「ロ・スケルモ(スクリーン)」を創刊し、映画復興キャンペーンを行っている。この雑誌は1928年に「チネマトグラフォ」に改名され、映画研究誌となったさらに、ミラノの評論誌「イル・コンヴェーニョ(集会)」にアントネッロジェルビの「映画の諸理論」掲載され、若い映画研究家たちを触発したと言われている。

 また、映画による教育・宣伝を目的とした映画公社LUCE(ルーチェ)においては、かつて「ポンペイ最後の日」(1908)などのカメラマンを務め、1923年まではアンブロージオ社で、技術・芸術部門担当として働き、30本の実写と70本の劇映画を撮影というロベルト・オメーニャが入社している。オメーニャは以後、150本の科学映画の短編を撮影していくことになる。