イタリア最後の日となった「ポンペイ最後の日」

 かつての栄光を失っていたイタリアは、1925年に夢をもう一度と作られた「クォ・ヴァヂス」が興行的に失敗に終わっていた。

 この年、多くの映画製作会社を吸収して大きくなったUCIが、「クォ・ヴァヂス」と同じようにかつての世界的ヒット作である「ポンペイ最後の日」(1926)をアムレート・パレルミ監督で製作し、再びかつての栄光を取り戻そうとした。だが、結果は失敗に終わった。高い製作費のために外国から資金援助を受けた(パレルミは資金調達に奔走し、後半を友人のカルミネ・ガローネに監督を頼んだという)が、そのために押し付けられたキャストを飲むことになった。加えて、製作は予定通りに進まず、予定の製作費は300万リラだったが、結果は700万リラとなってしまった。

 UCIは、「ポンペイ最後の日」を最後に映画製作を中止する。配給業も1927年で中止することになる。

 かつてイタリア映画が輝いていた1910年代に役者として活躍したエミリオ・ギオーネは、次のように語っている。「これがイタリアで撮影された最後の重要な作品となってしまった。『ポンペイ最後の日』ではなくて、まさに“イタリア映画最後の日”となった」

 そんな厳しい状況の中、イタリア映画の灯を消さなかった人物がいる。それが、大興行者のステファノ・ピッタルーガである。かつてのイタリア映画の隆盛とともに歩み、配給・興行で成功を収めたピッタルーガは、1926年にS・ピッタルーガ会社を興し、イタラのスタジオを買収したのだ。ピッタルーガがイタリア映画製作の火を消さなかった功績は、高く評価されている。