映画評「母」

※ネタバレが含まれている場合があります

母 [DVD]

[製作国]ソ連  [原題] MAT  [製作]メジラブポム=ルーシ

[監督]フセヴォロド・プドフキン  [原作]マクシム・ゴーリキー  [脚本]ナターン・ザルヒ  [撮影]アナトーリー・ゴロヴニャ  [美術]セルゲイ・コズロフスキー

[出演]ヴェラ・バラノフスカヤ、ニコライ・バターロフ、アレクサンドル・チスチャコフ、アンア・ゼムツォワ、イワン・コワリ・サムポルスキー

 労働者のリーダーの1人である息子を持つ母親。正直言えば許してやるという警察の言葉を信じた母親が、武器の隠し場所を話してしまったために、息子は逮捕される。母親は憤慨し、息子を脱獄させる作戦に加わり、労働者たちのデモに参加する。だが、当局はデモを妨害しようと待ち構えていた。

 当時のソ連の映画監督と言えばセルゲイ・エイゼンシュテインが、映画作品と言えば「戦艦ポチョムキン」(1925)が最も有名である。また、当時のソ連映画を表すキーワードであるモンタージュ理論も、エイゼンシュテインの名と結び付けられている。だが、プドフキンは当時のソ連においてエイゼンシュテインと並ぶ映画監督だったし、エイゼンシュテインと対立しながらモンタージュ理論を深めていった人物でもある。

 以後波乱の人生を送るエイゼンシュテインと、そうでもないプドフキンの差が現在の知名度に影響を与えていることだろう。また、「戦艦ポチョムキン」が映画史に残る作品として称揚され続けている一方で、プドフキンの作品がそこまでではない点も影響を与えているだろう。

 「母」はプドフキンの代表作の1つと言えるだろう。同じく1905年の出来事を描いたエイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」と同じように、まだ誕生間もなかったソ連が、帝政ロシアを悪役として、自らの正当性を主張した作品でもある。革命自体が賞賛されている点を現在の視点から見ると、体制側にとっては自らを批判している面を持っているように感じられるが、革命でできたソ連はそんなことは意識していなかったのだろう。内容や形式よりも、この点に時代を感じる。

 素人俳優を重視し、個人ではなく大衆全体を主人公としたエイゼンシュテインに対し、職業俳優の演技力を重視し、個人を主人公としたのがプドフキンと言われる。「母」も職業俳優のヴェラ・バラノフスカヤを主人公の母親役に据えている。バラノフスカヤは職業俳優らしく、息子を愛するあまり権力に屈してしまう弱さと、息子への愛を権力への抵抗に向けたときの強さを見事に表現しているといえるだろう。

 モンタージュの点でも、エイゼンシュテインが無関係のショットとショットの衝突によって新しい意味が作られるという理論だったのに対し、プドフキンは一連の流れに沿ったショットとショットの連関を重視したと言われている。「母」の編集は、当時の他の国の映画と比較すると一つ一つのショットが短いという特徴があるものの、全体的には現在でも踏襲されている、流れを重視したものといえる。ショットの数は、現在では短くなっているため、現在の視点から見ると、それほど多いというわけではないだろう。

 革命の物語を1組の親子の悲劇として描いている点で、エイゼンシュテインのみで成り立っていたわけではない当時のソ連映画の幅の広さを感じさせるに十分な作品だといえる。

 それでも私は「戦艦ポチョムキン」の方を、敢えて今見ても面白い映画だと言いたい。それは、「戦艦ポチョムキン」がサスペンスの面白さを備えているからである。「戦艦ポチョムキン」には、例えば上官の命令で仲間を撃つことをためらう兵士たちの様子に、また例えばポチョムキン号に向けられた他の戦艦の砲塔の動きに、溜めによる緊張感がみなぎっているのだ。

 「母」は、優れた映画であると思う。それでもなお、面白いのは「戦艦ポチョムキン」だ。

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