トーキーによる映画産業の変容

 当初、映画界の大会社たちはトーキーに半信半疑だったが、フォックス社はムーヴィートーンをニュース映画に活用し、フォックス・ムーヴィートーンというニュースを上映していた。第1号は1927年5月のリンドバーグの大西洋横断飛行だった。

 「ジャズ・シンガー」(1927)の成功により、映画界はトーキーへと移行していくことになる。だが、この動きは、系列の映画館に音響装置を設置する必要を映画会社に生じさせた。この設備投資には、多額の資金が必要だった。

 1927年秋、アドルフ・ズーカー(パラマウント)、ニコラス・スケンク(MGM)、ウィリアム・フォックス(フォックス)、カール・レムリ(ユニヴァーサル)、ワーナー兄弟(ワーナー)が秘密に一堂に会し、音響装置設置のために必要な数億ドルをどう調達するかについて話し合いがもたれたという。結論は、ニューヨークの銀行家たちに援助してもらうしかないというものだった。そして、東部の銀行家から多額の資金援助を受けることになり、東部の銀行家の影響力がハリウッドに及ぶことになったのだ。

 モルガン、ロックフェラーといった東部の財閥系の銀行家たちは、「高くつくうえにリスクも大きい、独立プロの映画製作の破棄」「映画一本の製作費を15万ドル以下に抑える」ことなどを要求した。これによって、チャールズ・チャップリンのような例外を除いて、アメリカ映画の多様性を生み出してきた独立系の製作会社は、業界から締め出されるようになり、映画産業は大きく変容していくことになる。