ドイツ フリッツ・ラング・フィルムの設立

 多額の製作費と興行的失敗という結果に終わった「メトロポリス」(1927)の責任を、経営危機にあったウーファは、ラングに責任を負わせようとした。ウーファはラングとの契約を解消しようとしたが、責任は自分にないとラングは弁明し、ウーファとの契約は存続していると主張した。

 そこでウーファは、ラングが2本の大作をウーファで作ることを認めたが、2本とも製作費80万ライヒスマルクを上回らないとすると約束させた。さらにウーファは製作費の超過をできるだけ押さえ、会社の損失を防ぐために、ラングが独立プロとして映画を製作してウーファが配給するように求めた。そしてラングは、1927年6月末に、独立プロのフリッツ・ラング・フィルムを設立する。

 当時のドイツにおいて、独立プロは珍しいことではなく、数週間前に女優オッシー・オズワルダも独立プロを立ち上げていた。