映画の興行的・娯楽的祖先(8−4) テアトル・オプティーク エミール・レイノー

 テアトル・オプティークには、単なる風景ではなく内容があった。物語があった。その意味で、レイノーの功績は小さくない。実際、アニメーションの分野ではレイノーの功績は高く称えられている。CGの普及により、実写のアニメーションの境目が以前ほどはっきりとしなくなってきている事情を考えると、レイノーこそ映画の父だと言えなくもない。

 だが、テアトル・オプティークと、この後に映画として世界に広まっていくものの間には1つ大きな違いがある。それは、テアトル・オプティークは複製ができなかったことだ。レイノーがせっせと1コマずつ書き込んだものを映写していたために、テアトル・オプティークは映画のように同じものを世界中で見ることができなかった。

 レイノーは職人であり、技術者ではなかった。その意味で、伝統的な芸術家と言えたのかもしれないが、決してテアトル・オプティークは映画のように世界を制することはなかった。

 1903年に動く立体写真「ステレオシネマ」を開発した(ミュートスコープのようにパラパラめくられるものを一人で覗く装置)が、商品化に失敗したエミール・レイノーは、1910年、何一つうまくいっていないという憂鬱にとらわれて、テアトル・オプティークの大部分のフィルムと装置をセーヌ川に投げ込んでしまった。

 1910年というと、すでに映画が世界中に広まっていた。レイノーは職人の時代の終わりに耐えられなかったのかもしれない。