映画人
第一次大戦前のシャルル・パテとパテ社の変遷を見ていくと、それは映画産業の歴史となる。映画作品の歴史の中にパテ社の作品はほとんど出てこない。シャルル・パテの主眼は、映画作品ではなく映画産業にあったのだから、それは当然のことなのかもしれない。 シ…
シャルル・パテは映画興行・製作・機材の開発といった映画に関わるあらゆる面で、他社に対しての優位を保持していた。映画初期において、映画興行・製作・機材の開発といった面はめまぐるしい勢いで変化をしていた。当初は写真が動くだけで満足していた観客は…
シャルル・パテは、剽窃による映画製作にとどまっていたわけではない。それは、初期の市場がとにかく数を欲していた時代に最も有効だった手段であり、パテは市場の需要に応えたのだった。数の需要を満たされた人々は、単に「映像」だけでは満足しなくなって…
パテは映画興行、映画製作の面を抑える一方で、映画機材の生産にも乗り出す。映画にはハードとソフトの面があり、いま「映画を語る」というと大体がソフト(映画作品)についての話になるが、ハード(機材など)の面も重要な側面である。特に、映画初期にお…
リュミエール兄弟、エジソン、ジョルジュ・メリエス、エドウィン・S・ポーターといった映画初期に名を残している巨人たちと比較すると、シャルル・パテ(写真)の影は薄い。だが、パテは映画界に確実に名前を残すに足る人物だ。 シャルル・パテの映画人生は、…
人気を失ったメリエスの製作する作品の本数は減っていき、やがて破産する。その後、かつてのライバルだったパテ社に誘われて映画を製作するものの復活とはいかず、第一次大戦の勃発も追い討ちをかけて、完全に映画製作から離れていくことになる。 そして、メ…
現代ならば、マーケティング調査を行い、観客が飽きていることを知り、内容を修正したりするところなのだろうが、メリエスはそうはしなかった。むしろ、自分の作っている作品は優れていて、人々がそれを理解しないと考えていたところもあるようだ。その意味…
メリエスは徐々に人気を失っていく。その理由は簡単だ。「月世界旅行」から新たなものを生み出すことをしなくなったのだ。1900年代の映画は、今とは異なり、様々な人々が様々な映画の可能性を開花させていった時代だった。たとえば、ロケを行って迫力の…
トリックにこだわったメリエスが、「物語を語る」という映画の持つもう1つの可能性と融合した作品。それが「月世界旅行」(1902)である。だからこそ、「月世界旅行」は、当時の人々に受けたのだ。一般的に言われているような「世界最初の物語映画」だか…
メリエスが行ったような奇術的な使い方以外にも、カメラを使って撮影されたフィルムはいろんなことができる。その1つが、物語を語るということだ。映画はこれから先、物語を語るという側面を推し進めていくことになるのだが、メリエスはこの物語を語るとい…
メリエスが使ったトリックは、カメラを一旦止めることによって、人や物を消しただけではない。カメラには一度撮影したフィルムを巻戻して再び撮影すると、二重で撮影されるという機能がある。この機能に、レンズを真っ黒な紙などで覆って一部分しか撮影しな…
メリエスは一瞬にして人が消える映画を、カメラの機能を使って撮影した。今から見ると、それはあからさまにどのようにして撮影されたかがわかる。しかし、当時の観客にはカメラの機能なんて知らない。観客には受けて、メリエスは同じタイプの作品を多数製作…
メリエスといえばトリック映画だ。だが、メリエスは決してトリック映画の発見者ではない。トリック映画にこだわったという意味において、「メリエスといえばトリック映画」となったのだ。 メリエスは映画製作の最初の最初からトリック映画を製作したわけでは…
メリエスはなぜ映画を見世物と向かわせることができたのであろう?その理由を考える上で、忘れてはいけない点が1点ある。それは、メリエスが元々は奇術師だったという点だ。 リュミエール兄弟がカメラ機械の開発・販売という堅気の仕事の延長線上で映画の世…
ジョルジュ・サドゥールは「月世界旅行」を評して次のように書いている。「この映画が成功したのは何といっても完璧に調和しあい、想像力が横溢している衣装と舞台装置を創りだしたことにある」(世界映画全史vol.3) メリエスの作品は、舞台をそのまま映し…
もちろん、ここが日本であるという理由もある。しかし、どうやらフランスでも状況はさほど変わらないらしい。おそらく、ゴーモン社の倉庫の中には探し出せばいくつかのフィルムは出てきそうらしいのだが、利益にならないアリス・ギィのフィルムの捜索が行われ…
アリス・ギィはジョルジュ・メリエスと同じ頃、映画を製作し、物語映画の意味ではメリエスに先行していたという説を唱える人もいる。今とは異なり、情報の伝達が遅かった時代の話だ。まだ、映画製作が集約的ではなく、散発的に行われていた時代の話だ。実際の…
ここで、ちょっとアリス・ギィについて触れたい。 アリス・ギィの名前は映画史に燦然と輝いているわけではない。むしろ、多少映画史に詳しい人物でも知らない人は多くいるだろう。 「アリス」は一般的に女性の名前であり、アリス・ギイは女性である。映画草…
そんな兄弟も間欠運動(フィルムを連続的に送りながら、一瞬ずつ静止させる仕組み)については悩んだらしい。だが、最終的に弟のルイが解決方法を考え出すことに成功した(このことにより、兄のアントワーヌはルイこそが唯一の発明者であると語っている)。 …
リュミエール兄弟はすでに、エジソンがキネトスコープで導入していたパーフォレーションについて知っていたため、一定の速度で中心をしっかりと据えてフィルムを送るという映画に必要な条件の1つをクリアーしていた。 また、多くの映画機械の開発者が入手で…
弟のルイは14歳のときに、写真の感光材の改良に成功する。その感光材の出来が素晴らしく、欲しいという人が大勢いたために、アントワーヌは工場を作って大量生産をして販売する事にした。「エチケット・ブルー」と名づけられたこの感光材は大ヒットして、…
リュミエール兄弟。「映画の父」として、映画史に輝く兄弟に話は移る。彼らの名前とともに輝く日付けがある。それは1895年12月28日。リュミエール兄弟が開発した上映式の機械シネマトグラフによる一般有料上映が行われた日だ。 覗き穴式の映像として…
結局、エジソンの映像は覗き見式のものとして開発され、1891年には特許が取られる。それは「キネトスコープ」と名づけられた。同時に撮影機についても特許が申請されており、こちらは「キネトグラフ」と名づけられた。 エジソンは研究には消極的だったに…
エジソンは自らが思い描いたものと異なる映像よりも、別のものに興味を持つようになる。それは、鉄鉱石選別の研究だった。純粋に発明の興味として映像よりも鉄鉱石選別に興味を持ったのかはわからない。だが、少なくとも投資先として、エジソンは鉄鉱石を選…
必要な要件が揃っていたにも関わらず、エジソンは映像にそれほど乗り気ではなかった。その理由は、当時の研究の結果がエジソンの描くものとはかけ離れていたからである。では、エジソンが描いていたものは何だったのか? エジソンが思い描いていたのは、トー…
なぜ、エジソンは映像の機械を開発するための要件をクリアする事ができたのだろうか?その答えは、エジソンのこれまでの実績と、それに伴う知名度によるものと思われる。エジソンはマレーの撮影機からヒントを得た。知識は共有すべきだというのがマレーの信…
研究が行き詰まった状況の1889年にエジソンはヨーロッパに休暇旅行へ行く。そして、エジソンはエチエンヌ・マレーを訪問し、マレーの撮影機を見たという。そして、すぐに自分の蓄音機式のやり方が間違っていた事を悟り、10月に帰国するとディクソンに…
きっかけはどうであろうとも、1888年からニュージャージー州ウエスト・オレンジのエジソンの研究所では、映像に向けての研究が始まった。実際に研究をメインで担当したのはウィリアム・ディクソンという人物だった。だが、ディクソンは持っている時間の…
エジソンは1894年に次のように記している。「1887年に、耳に対して蓄音機がなした事を視覚に対してなす機械を組み立てることができるという考えが私に起こった。この機械は音と運動という二つを組み合わせて、記録し同時に再生するのである」と。 当…
ここまで映画前史にあたる部分を見てきた。 興行的・娯楽的な部分は、映画の発展にとって関係ある部分といえるだろう。映画の誕生について直接関係のあるのは、残像現象によって人間が写真を映像と認識するために必要な機械や技術の開発の部分だ。 これから…