特許戦争

 1896年に特許を取られたアメリカン・ミュートスコープ社のバイオグラフは、エジソンの持つ特許を侵害しないもののはずだった。それは、かつてエジソン社で開発に携わっていたディクソンが、バイオグラフ開発に関わっており、確実なはずだった。だが、事態はそうはいかなかった。

 映写式の映像が人々に受け入れられるのを見たエジソンが、かつて申請していた特許に修正項目を追加して新たに特許申請していたためだ。

 1897年3月、バイオグラフ社の特許と、エジソンの修正項目のどちらに優先権があるかについての審査が特許庁によって始まった。

 はじめの決定では、ミュートスコープ社の訴えが認められたが、エジソン社は特許局長に直接訴えかけるなどの活動を行い、最終的にはエジソンが映画撮影機の独占的な発明者として認められ、独占的使用権が与えられた。

 1897年12月、エジソン社は特許庁の決定を盾に、映画会社に対して映写機の製造、フィルムの焼き付けを禁止することと、入場料に対する歩合を納めることを通知した。これは、エジソン社は映画製作のリスクを冒さず、利益をあげることができる仕組みだった。       
 エジソン社に対抗する力のないほとんどの映画会社は、映画界から去っていくか、エジソン社の要求を飲むしかなかった。