アメリカの保護政策とリュミエール社の撤退

 1897年末にリュミエール社はアメリカから撤退することになる。その要因の1つには、映写技師の不足から、リュミエール社が契約どおりにフィルムを提供できなかったというリュミエール側の理由もあるが、一方でアメリカの保護政策があった。

 当時のアメリカは保護政策をとっており、映画の分野においてもリュミエール社に対する圧力が強まっていた。エジソンが映画についての特許を所有していたために、リュミエール社が特許違反であると指摘される危険もあった。

 リュミエール社のアメリカにおけるシネマトグラフの歴史は1年半ほどで幕を閉じることになる。