1897

 アメリカン・ミュートスコープ・バイオグラフ社の作品 1897年

「PRESIDENT McKINLEY AT HOME」(1897) アメリカン・ミュートスコープ・バイオグラフ社の作品。 当時のアメリカの大統領マッキンリーが秘書とともに庭を歩くシーンを撮影。映像としては面白い部分はない。大統領の顔もはっきりとわからない。おもしろい…

 フランス ゴーモン社の作品 1897年

「LE PECHEUR DANS LE TORRENT」(1897) 英語題「THE FISSHERMAN AT THE STREAM」 製作国フランス Société des Etablissements L. Gaumont製作 監督アリス・ギイ 川辺で釣りをしている男性を、子供がいたずらして川に突き落とす。1分弱の作品。 映画草…

 イギリス・Bamforth Filmsの作品 1897年

当時、映画においては著作権という概念がなく、人気を得た題材はすぐに他の会社でも剽窃されたという。そのため、ある題材のオリジナルを考えたのが、いったい誰だったのかがわかりづらくなってしまったりもしている。 「The Biter Bit」(1897?190…

 エジソン社の作品 1897年(2)

映像は初期からCMとしても使用されてきた。ここに挙げた2作以外にも、リュミエール兄弟の作品では石鹸会社の名前が見えるように撮影するといった、現代の広告用語で言うプロダクト・プレイスメント的な手法で撮られた作品もある。 「RETURN OF LIFEBOAT」…

 エジソン社の作品 1897年(1)

この頃、まだ「スター」は存在しなかった。正確には映画の世界独自の「スター」は存在しなかった。だが、代わりにすでに有名だった人物を撮影した作品が話題を呼んだ。「MR.EDISON AT WORK IN HIS CHEMICAL LABORATORY」は、当時知らないものはいないほど有…

 1897年の他の状況

1897年末にアメリカから撤退することになるリュミエール社だが、世界各地へ撮影技師を派遣し、そのカタログには各国のフィルムの名前が増えていった。 フランスのパテ社はこの年、大手金融グループの支援を受け、映画の興行会社へと拡大していく。また、…

 1897年の映画興行

この頃の映画興行は、今のように映画館で行われていたわけではない点に注意しておく必要があるだろう。 この頃の映画は、ミュージック・ホールといった場所で他の出し物と一緒に上映されていたり、露天興行師や巡回見世物業者によって上映されていた。映画専…

 特許戦争

1896年に特許を取られたアメリカン・ミュートスコープ社のバイオグラフは、エジソンの持つ特許を侵害しないもののはずだった。それは、かつてエジソン社で開発に携わっていたディクソンが、バイオグラフ開発に関わっており、確実なはずだった。だが、事…

 アメリカの保護政策とリュミエール社の撤退

1897年末にリュミエール社はアメリカから撤退することになる。その要因の1つには、映写技師の不足から、リュミエール社が契約どおりにフィルムを提供できなかったというリュミエール側の理由もあるが、一方でアメリカの保護政策があった。 当時のアメリ…

 ジョルジュ・メリエスの活躍(2)

メリエスはトリック映画の他にも喜劇や、ニュースを再構成した作品などを製作した。ニュース映像というものがまだ存在せず、ニュースを伝えるための写真の活用もあまり行われていなかった時代に、ニュースを再構成した作品は成功を収めた。 といっても、18…

 ジョルジュ・メリエスの活躍(1)

映画が危機に陥った中、活躍したのがジョルジュ・メリエスである。メリエスは奇術師であり、奇術が行われている舞台を撮影したりしていたのだが、ある出来事からフィルムをつなげたトリックを思いつく。ある出来事とは、撮影中にカメラが故障してしまい、修…

 フランスにおける映画の危機

1895年12月のシネマトグラフの公開から1年以上が経過した1897年。フランスにおいて映画は停滞を迎えていた。シネマトグラフよりも質の悪い様々な機械による興行は、物珍しさを失った後も繰り返し観客を呼ぶほどの魅力を提供できなかった。シネマ…