1897年の他の状況

 1897年末にアメリカから撤退することになるリュミエール社だが、世界各地へ撮影技師を派遣し、そのカタログには各国のフィルムの名前が増えていった。

 フランスのパテ社はこの年、大手金融グループの支援を受け、映画の興行会社へと拡大していく。また、同じくフランスのゴーモン社では初の女性監督であるアリス・ギイの作品が世に出ている。

 アメリカでは、後にアメリカ映画界で大きな役割を果たすバイタグラフ社が、1897年3月31日にJ・スチュアート・ブラックトンとアルバート・E・スミスによって設立されている。

 スペインでは、フランクトゥオッソ・ヘラベルトによって、スペイン映画初の劇映画「カフェの喧嘩」(1897)が作られている。二人の男の口論を、友人たちが引き離すという内容の作品である。ヘラベルトはその後、その後、リュミエール風の実写撮影を行ったという。
 ヘラベルトは、初期スペイン映画界を代表する人物で、国際的にも評価されたといわれている。ヘラベルトは、1928年に引退するまでに102本の作品を撮ることになる。他にも、撮影だけを担当した作品や他の映画製作会社からの依頼で監督を努めたものも多数あるという。また、スペインに、映画撮影用のスタジオを最初に建てたのもヘラベルトである。

 イギリスでは、ロンドンのストランドに撮影所が建設されている。この撮影所は、アメリカ人E・B・クープマンという人物によるもので、アメリカのミュートスコープ・アンド・バイオグラフ社のために建設されたという。

 同じくイギリスでは、セシル・M・ヘップワースが「シネマトグラフのABC」という本を出版している。この本は、世界最初の映画ハンドブックと言われている。ヘップワースは、エジソンのイギリス代理店を経営するアメリカ人チャールズ・アーバンがアメリカから持ち込んだ、「フリックレス」映写機(ちらつきのすくない映写機)をさらに改良し、技術向上にも貢献したと言われている。

 さらにイギリスでは、巡回興行師のウォーカーとターナーがフィルムを仲間に貸すという行為を始め、これは配給業の原型とも言われている。2人はソーホーにオフィスを構えた。後にソーホーは、映画会社のオフィスが建ち並ぶ映画ビジネスの中心地となる。ちなみに、巡回興行師たちの多くは家族ぐるみで商売を行っていた。代表的な巡回興行師にはフランク・モッターショーや、製作(「鮭の密漁者」1907は480本もプリントを販売した)・配給も手がけたウィリアム・ハガーなどがいる。

 イタリアでは、イタリア最初の映画館と言われる「活動写真館(フォトグラフィエ・ヴィヴェンティ)」がローマに開館している。また、ナポリにも最初の映画館ができたと言われている。

 ドイツでは、映画機器製造から映画製作まで行っていたオスカー・メスターが、1897年からシナリオ・撮影・製作を自ら担当というジョルジュ・メリエス流の活躍を開始していた。当時製作された作品としては、「自転車散歩」、ヴァリエテの俳優を使った愛国的コスチューム・プレイ「セダンにおけるナポレオン三世の降伏」や「フリードリヒ大王」などがある。「自転車散歩」はクロース・アップを使用し、先駆的な表現の試みとして高く評価されたという。

 スウェーデンでは、オスカー・ハルディーンが1897年前半に撮影を行っており、その作品がスウェーデン初の映画と言われている。一方でスウェーデンでは、リュミエール社のカメラマンのアレクサンドル・プロミオの助手から独立したエルネスト・フロールマンがスウェーデン初の劇映画監督と言われている。スウェーデン初の劇映画作品は「やくざ犬の小屋」という約3分の作品である。ニューマ・ペータション商会が配給を行った。フロールマンの名前は映画の歴史からこの後消えるが、ニューマ・ペータションはしばらく製作と配給を続けたという。

 インドでは、写真家ハリシュチャンドラ・サカーラーム・パトヴァーデルがレスリングの試合を撮影している。この作品は、インド初の映画と言われている。