パテ社の映画制作

 フェルディナン・ゼッカを擁するパテ社は、「アリババと40人の盗賊」など、この年も多くの作品を製作し、量の面で映画界をリードしていた。

 ジョルジュ・サドゥールは「世界映画全史」の中で、「フランスでは、質においてはメリエスが首位を占め、量においてはパテ社が首位を占めた」と書いている。

 ゼッカは1902年から1905年にかけ「イエス・キリストの生涯と受難」を製作した。場面数は40に及び、大掛かりなセットを俯瞰で撮影するなど、演出にも工夫が凝らされており、興行的に大成功を収めた。

 1899年からパリのパテ社でフィルムの着色の仕事をしていたセグンド・デ・チョモンは、1902年にスペインに戻り、映画の着色工場を始めている。チョモンは同時にパテ社のスペイン代理人も兼ね、フランス語の字幕をスペイン語に差し替える仕事も行っていたが、字幕を撮影するうちに自分で映画を撮影するようになる。チョモンはこの年、ミニチュアを使った「列車の衝突」(1902)といった作品を製作している。

 1902年は、映画専門館ができ、メリエスの「月世界旅行」の成功に象徴されるように、映画が興行として定着した年といえる。興行として定着するためには、それに合うだけの数の作品が必要ということでもあり、その役割はパテ社が担った。