その他の状況

 イギリスでは、G・A・スミスが赤と緑の二色の回転フィルターによる「キネマカラー」を開発を開始し、アメリカ人のチャールズ・アーバンと商業化を図っている。

 ドイツでは、オスカー・メスターが大作「サロメ」を発表している。「サロメ」は、パテ社の長篇「キリスト受難劇」に刺激を受けて製作されたものだという。さらにメスターはこの年、会社名をメスター・フィルムに変更している。メスター・フィルムは、当時流行していた映写機とフォノグラフ(蓄音機)を連繋したトーキー映画製作に乗り出すしていくことになる。そのため、バリトン歌手として人気のあったフランツ・ポルテンを招いている。フランツ・ポルテンは、後に大スターとなるヘンニー・ポルテンの父親である。

 オスカー・メスターがボスのメスター・フィルムにはこの年、カール・フレーリッヒがカメラマンとして入社している。監督となった後のフレーリッヒは器用なテクニシャンで、後にヘンニー・ポルテン映画を演出するほか、フランス映画を模倣しつつ、様々なジャンルの映画を製作していくことになる。

 デンマークでは、コンスタンティン・フィリプスンという人物が、コペンハーゲンにオデオン劇場を建設したが、半年しかもたなかったという。

 スウェーデンでは、フェルディナンド・ハーベルマンが、エーテボリにスウェーデン初の映画常設館アルカーデンを開設している。また、スウェーデンでは、1902年か1903年頃に、「ビオフォーン」というレコード式トーキーが紹介され、大衆に受けたと言われている。そのため、「ビオフォーン」の機械をを使った一巻ものを作る業者が多く登場したという。「ビオフォーン」の作品は、有名な俳優や歌手が何かを朗読したり歌ったりするだけのものだったが、流行は数年間続き、デンマークの作品も輸入されたと言われている。合計300本以上が生産されたといわれるが、実物はほとんど消失している。

 ポーランドでは、映画カメラ「プレオグラフ」を開発して特許を取得していたカジミエン・プルシンスキという人物が、プレオグラフ社を設立している。プレオグラフ社は映画製作を行い、1902年から1903年の間に10から20本の作品を製作したと言われている。だが、ポーランドにはリュミエール方式の外国映画が輸入され、「プレオグラフ」ではそれらのフィルムが映写できなかったために、プレオグラフ社は解散へと向かう。

 またポーランドには、リュミエール社でカメラマンとして働き、各地で作品を撮影したレスワウ・マトゥシェウスキという人物もいる。マトゥシェウスキは、リュミエール社から独立後、医学をテーマにした作品を撮影し、映画の社会的効用を説いたという。また、映画フィルム保存所の必要性も説くという先見性も持っていたといわれている。

 中国では、北京でも上映が行われている。当時上映された映画は外国映画だったという。