映画評「大列車強盗」(2)

 「大列車強盗」の最も特筆すべき部分を挙げるとすれば、それは空間の広がりについてだろう。ジョルジュ・メリエスの作品を見ていると、アイデアの豊かさを楽しむことはできるが、空間の広がりを感じられない。メリエスの場合は舞台で演じられているものを撮影するというスタイルのためだが、そうではなく屋外で撮影された別の人物による1903年までに作られた作品でも、空間の広がりは感じられない。

 駅舎から列車の中、列車の屋根の上、森の中と「大列車強盗」の空間は広がりを見せる。特に、列車の上での格闘は、それまでには見られない迫真性を持っている。気絶させた男を強盗が放り投げるシーンは、最初見たときに人形と入れ替わっていることに気づかずに驚きの声を挙げてしまった(人形だとわかると、とてもちゃちな作りなのだが)。

 「大列車強盗」(1903)のもう1つ取り上げなければならない点は、その内容についてだろう。「西部劇」というジャンルよりも、「アクション」というジャンルとして、銃撃戦や殴り合いはこの先も繰返し手を変え品を変え描かれていく。それは、私たちを興奮させもするし、「またか・・・」と辟易させたりもする。その萌芽が「大列車強盗」にはある。

 映画誕生から10年足らずに作られた「大列車強盗」は、私たちが日ごろ親しんでいる「映画」らしい形を持った映画として、この先も語り継がれていくことになるだろう。